みかんダイアローグVol.7:「コモンズ農園」の未来構想図―省農薬農業の取り組みから学ぶー下津きょうだいみかん山×廣瀬 智央 テキストアーカイブ
「コモンズ農園の未来構想図」をテーマに、和歌山県で柑橘を栽培されている下津きょうだいみかん山の園主、大柿肇 (おおがきはじめ)さんをお招きして、農薬中毒に起因する17歳の松本悟 (まつもと さとる)さんの死をきっかけに省農薬栽培を始めるようになった経緯や、京都大学農薬ゼミと協力して行っている取り組みなどについてお話しいただきました。また聞き手には、「公園のような農園」を目指して紀南で「コモンズ農園」プロジェクトを実施しているイタリア在住のアーティスト、廣瀬智央氏を迎え、アートの視点を通じてあらためて私たちが目指すべきコモンズ農園について一緒に考えました。
本文は、芸術、文化を通して「柑橘」について深掘りするオンライントークセッション、 みかんダイアローグ第 7 弾の記録です。
【オンライントーク・セッション】
日 時:2024年9月 10日(火)19:00 ~ 20:15
【ゲストスピーカー】
大柿 肇 / Hajime Ogaki(下津きょうだいみかん山)
下津きょうだいみかん山の第三代目園主。長年勤めたアパレル業界を退職後、趣味のロードバイク仲間から紹介を受け、2018年に園主として就任。下津きょうだいみかん山は、1968年に農薬中毒で亡くなった17歳の高校生の死をきっかけに、京都大学農薬ゼミとともに農薬を出来るだけ使わない省農薬ミカンを栽培している。
下津きょうだいみかん山 HP: https://www.sk-mikanyama.com/ourfarm
Mandarin Field HP: https://www.foun-p.com/about.html#sec04
廣瀬智央 / Satoshi Hirose(アーティスト)
1963年東京生まれ。現在ミラノ在住。イタリアを拠点に、日本、アジア、ヨーロッパなど世界各地の多数の展覧会に参加。廣瀬智央は、インスタレーション、環境への介入、パフォ−マンス、彫刻、写真、ドローイング、そしてより大きな意味でのプロジェクトなどのメディウムを使い、詩的な作品を創り出す現代美術家です。境界を越えて異質な文化や事物を結びつける脱領域的な想像力が創造の原理となっており、目に見えない概念を目に見えるものへと転換する試みが、廣瀬の作品に一貫してみられます。日常の体験や事物をもとに、新しい価値の創出や世界の知覚を刷新する表現をつくりだしています。19年間継続する母子生活支援施設の母子たちとの長期プロジェクトや、展覧会で使用した素材を地域の人々と協働し、循環させるアートプロジェクトにも近年取り組んでいます。
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省農薬栽培の先駆け「下津きょうだいみかん山」
山本:みなさま、本日はオンライントークセッション「みかんダイアローグ vol.7『コモンズ農園の未来構想図』」にご参加いただきありがとうございます。私は紀南アートウィークの山本と申します。
本日は、紀南アートウィークのアートプロジェクト「コモンズ農園」について、これまでとは異なる角度から考えてまいります。このプロジェクトは2022年に始まったもので、ひと言でいうと「公園のような農園」を目指す取り組みです。
今回は、同じ和歌山県内で省農薬農業に長年取り組んでいる「下津きょうだいみかん山」の三代目園主、大柿肇さんと、「コモンズ農園」の発案者でありアーティストの廣瀬智央さんにイタリアからご参加いただき、対談形式で進めてまいります。
まず、「下津きょうだいみかん山」の歴史と省農薬栽培について、大柿さんにお話を伺います。50年以上続く取り組みについて、始められたきっかけなどをぜひお聞かせください。
後半は、進行中のアートプロジェクト「コモンズ農園」について廣瀬 さんからお話を伺います。「下津きょうだいみかん山」から学べることを踏まえつつ、コモンズ農園の未来のあり方についても意見を交わしたいと思います。
大柿:「下津きょうだいみかん山」の園主を務めております、大柿肇と申します。見た目はベテラン農家に見えるかもしれませんが、実は全く異業種から新規就農した新米農家です。農業歴はまだ7年目ということで、専門的な質問にはお答えできない場合もあるかもしれませんが、新米ならではの視点でお話しさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。
廣瀬:廣瀬智央と申します。本日は対談の機会をいただき、ありがとうございます。私は「紀南アートウィーク」に参加するのは今回が2回目で、2022年から「コモンズ農園」のプロジェクトを進めています。普段はミラノを拠点に活動し、展覧会やプロジェクトを各地で行っています。この「コモンズ農園」は最低でも10年以上続く長期的な取り組みとして進めています。本日はどうぞよろしくお願いいたします。
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17歳の青年の死から始まった「省農薬」の取り組み
廣瀬:私は「省農薬」について深い知識を持っておりません。しかし「コモンズ農園」を進めるなかで、農薬の問題は非常に重要なテーマだと考えています。この対談を通じて、取り組みや考え方を詳しく伺いたいと思っています。まず、この取り組みを始めたきっかけなどについて教えていただけますか。
大柿:きっかけとなった事故が起きたのは、1967年のことです。当時私は1歳ですので、事情に詳しい助教授(後に教授)だった石田紀郎氏に事前にヒアリングしてきました。これからお話しする内容は、その情報を基にしています。
発端は、当時17歳だった松本悟さんが不幸にも農薬中毒で亡くなったことでした。当時は高度経済成長期の真っただ中で、大量生産・大量消費が推奨され、農業の分野でも農薬を使用して大量生産が行われていました。農業統計を見ると、1958年から2016年の期間は毒性の高い農薬が大量に使用されており、まさに「暗黒時代」ともいえる状況でした。
1967年7月14日、和歌山県下津町の松本家では、松本武さん、エツコさん夫妻と息子の悟さんの3人で農薬散布を行いました。指定された防護具を着用し、午前中3時間、午後2時間ほど作業を行いましたが、悟さんはその日の夕方に吐き気を訴え、意識不明となり、3日後に急性中毒死で亡くなりました。
当時、同様の事例はほかにも発生していましたが、社会的に異議を唱えにくい風潮があり、ほとんどが曖昧な形で終わっていました。しかし、松本さん夫妻は深い悲しみの末、農薬会社を相手取って民事裁判を起こしました。この裁判は1968年に開始され、1977年に和歌山地裁で判決が下されましたが、結果は完全敗訴でした。
裁判は当初注目されず、傍聴人もわずか2人しかおらず、地元からの理解も得られず孤立した状況でした。しかし、婦人民主クラブの支援や集落の住民の理解が進み、最終的には判決の日に傍聴席が満席になるほど注目を集めました。
その後、大阪高裁に控訴し、多くの証拠が提出され、激しい議論が交わされました。この裁判は日本初の農業問題を扱った裁判として歴史的な意義を持つものとなり、1984年8月23日に和解が成立しました。
資料=京都大学農薬ゼミHPから
使用された農薬は「ニッソール」というフッ素系殺虫剤で、この裁判は「ニッソール訴訟」として知られています。
和解内容は、農薬会社から1250万円の賠償金が支払われるというものでした。この和解は、当時の日本の法律では農家側の敗訴が濃厚な中で実現し、勝訴に近い成果とみなされました。また、この裁判を通じて農薬の危険性への意識が高まり、その後の無農薬や有機農業の動きにつながる重要な出来事となりました。
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安全な農作物への意識を喚起した裁判
廣瀬:この時代、日本全国で高度経済成長が進む中、多くの地域で公害問題が発生し、未解決のものも数多く残っています。そのような状況の中、この裁判は非常に画期的だったと思います。農薬や公害の問題はみんなを不幸せにします。私たちがこれから生きていくうえで、見て見ぬふりはできない課題だと思います。
今回、こんなに身近にリアルな例があることを知り、大変驚きました。決して終わることのない課題だと思います。そこでお聞きしたいのですが、製薬会社との和解に至るまでのプロセスや、農家の方々が国や企業という大きな権力に対してどのように向き合い、納得に至ったのでしょうか。
大柿:和解の詳細については、松本さんご一家と弁護士、裁判官、被告である農薬会社のみで話し合われたため、私自身はその細部を把握していません。ただ、結果として賠償金が支払われたことは、先ほど述べましたように勝訴に近い成果だったと理解しています。
この裁判を通して、農家の人たちの意識にも変化が現れます。農薬について争っているのに、農薬を使った栽培をしていていいのか、というジレンマに陥ったのです。
松本家では、武さんの実弟の仲田芳樹さんが、新たに開拓する農地で省農薬栽培にチャレンジする決意をします。
協力を要請された京都大学の石田紀郎先生は、自分たちにできることならと快諾。これを機に「京都大学農薬ゼミ」が結成され、省農薬みかん栽培が実質的にスタートしました。
しかし、最初の頃は形が悪く、売り物にならないみかんが多かったため、農協でも引き取られませんでした。それなら自分たちで売ろうと、石田先生の尽力で、京都大学関係者や知人への直接販売が始まり、その後「エル・コープ」という生協が設立。この生協は最終的に大阪を拠点に年商10億円規模にまで成長し、現在も全国規模の「生活クラブ生協」として活動を続けています。それから、滋賀県に「青い琵琶湖」という環境生協があるのですが、こちらもうちのミカンを売ってくださっています。
資料=京都大学農薬ゼミHPから
下津きょうだいみかん山の位置(上)/調査中の農薬ゼミの学生(下) 写真=大柿肇
廣瀬:松本さん一家の挑戦が、無農薬農業や社会全体の意識改革につながる大きな成果をもたらしたのですね。それにしても、経済的な不安や形が悪い作物への対応は当時の社会では非常に難しかったことでしょう。松本さんの甥っ子が新たに農園を継がれた後、その後継者問題や特殊な栽培方法が障壁となったと伺いました。その背景についてもう少し詳しく教えていただけますか?
大柿:甥っ子の尚志さんは55歳で早期退職後に農園を継ぎましたが、残念なことに急逝され、その後は後継者がいない状況に陥りました。近隣の農家やご遺族の中でも引き継ぐ人はおらず、農園の特殊な栽培方法や販売ルートが障壁となったためです。
私がこの農園を引き継ぐことになったのは、ロードバイクが趣味で、京都大学農薬ゼミのOBの方と出会ったことがきっかけです。その方から農園の話を聞き、現地を訪れた際、農園の景観や歴史に感銘を受け、即座に「自分が引き継ぎたい」と申し出ました。
廣瀬 すごく大きな決断だったでしょうね。大柿さんの行動力に感服します。ところで、裁判の賠償金で「悟の家」というのを建てられたそうですね。
悟の家 写真=大柿肇
大柿:当時、京都大学を始め、東京大学などの研究者や学生がこの事件と裁判に関心をもって、現地を訪れたそうです。しかし、宿泊施設がないので、公民館や牛舎で寝泊りしたとのことです。松本さんは「みなさんに随分ご迷惑をおかけしたので」との気持ちから、宿泊施設を建て、悟君の名前をつけました。現在でも、京都大学農薬ゼミの学生たちが調査の際に寝泊りしています。
廣瀬:それにしても販売方法は特殊ですね。やはり、こうした仕組みがないと難しいのかなとお思います。産業としての農業と、エコロジカルな視点からの農業のあり方を模索して行き着いたのが、省農薬による栽培ということなのでしょうか。
大柿:私は、省農薬栽培は単なる農法ではなく、一つの「精神的なマインド」だと考えています。省農薬栽培というものを理解してくださる消費者がいて、初め成り立つ仕組みだと考えています。たとえば、私が新規就農した2018年には注文が足りず、消費者の方々にご迷惑をおかけしましたが、翌年の2019年には10トン以上のみかんが余る事態に陥りました。そのため農協に出荷せざるを得ませんでしたが、成果と認められたのは全体の2割のも、あとは加工用として引き取られ、その価格は非常に低く、20キロのみかんがわずか250円から300円でした。このときは、農園の継続維持に大きな不安を感じました。それでも省農薬の理念を共有してくださる消費者のおかげで、現在も事業を続けることができています。
調査中の農薬ゼミの学生たち 写真=大柿肇
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コモンズ農園の取り組み
廣瀬:まず、コモンズ農園とは何なのか。なぜアーティストが関わるのか、現況と将来のビジョンを含めて説明したいと思います。
概念図を用意しました。「コモンズ」という言葉には「共有する」「共有地」という意味があります。個人で所有するのではなく、共有していく考え方がこのプロジェクトの根幹にあります。
資料=廣瀬智央
そもそもなぜ始めたかというと、2021年に始まった芸術祭「紀南アートウィーク」がきっかけです。普通の芸術祭では、アーティストが作品を展示するだけですが、今回は紀南地方がみかんの産地であることから、みかんを使った作品を作ってほしいという話が実行委員長の藪本さんからありました。それは私が過去にレモンや柑橘類など、生ものや有機物を使った作品を制作することが多かったからです。
レモンを3万個並べ、見るだけでなく匂いによる嗅覚を刺激する作品でした。しかし、こういった展示期間が決まっているアート作品には廃棄物の問題がつきまといます。単に何かを作るだけではなく、今の時代、生態系や環境に配慮しなくてはならない。ちなみにレモンのときは、レモンの種を石鹸に、レモンの皮は紙へとリサイクルしました。今回もみかんは買わねばならないし、後のことも考えねばならないと思っていたところ、「どうせなら育てるところから始めませんか?」と私から藪本さんへ提案をしてみたんです。それがこの農園の出発点です。
育てるところからアートが始まる
農作物は育つまでに時間がかかります。その間に、農園を通じてさまざまな人々が出会い、地域の資産を再発見する場を作ったらどうだろうと思い至りました。地域の農業資産や食文化、歴史といった豊かな要素を掘り起こし、新たな形で結びつけていこうというわけです。
ですから、コモンズ農園は生業としての農園ではありません。経済的な成果を目的とせず、生活や文化を豊かにするフィールドを作りたい。アートはこうした取り組みに非常に適しているのです。われわれアーティストは普段、見えないところに何かを見つけたり、新しいものを提案したりしています。こうしたことも現代美術の役割の一つと考えています。
「下津きょうだいみかん山」の省農薬栽培と販売スタイルは、誰もが不可能と思ってやろうとしなかったことを、新しい価値観を見つけて実現している。そういうことをコモンズ農園でもやっていきたい。究極的には、精神的な豊かさを得るための何かを見つけられる場所にしたいと考えています。時間も大事なポイントです。こうしたことを、自然のリズムに寄り添いながら、10年以上かけてゆっくりとたペースで進めていく予定です。
日本は特にそうなのですが、結果をすぐに求められます。長くても、一年以内。時間のサイクルを変えることで、生活スタイルも緩やかになります。すると新しい発見がいっぱいあるわけです。今年で三年目なのですが、その間にいろんなことが見えてきました。
「遊びごころ」が新たな視点生む
農園の具体的なイメージは、宿泊施設や図書館、展示スペースを備え、農業やアートに関心を持つ人々が自由に集える場所にしていきます。また、一本の木を里親として大切に育てる仕組みを作り、その木の実を作品に生かすといったことも考えています。
資料=廣瀬智央
これまでの活動を簡単に申しますと、2021年にスタートしてから、地域の農家さんへのインタビューや農地のリサーチを行いながら少しずつ進めてきました。
資料=廣瀬聡央
2022年にはプロジェクトのコンセプトを紹介する展覧会を開催。不定期で「みかん通信」を発行し、活動内容を共有しています。また、ワークショップではアートを通じてコモンズ農園の考え方を共有できる機会を設けました。
今年は「粘土団子の旅」というテーマで、無農薬農法を学ぶワークショップを行っています。これは、粘土団子の考案者、福岡正信さんの自然農法の思想に学ぶ取り組みです。さまざまな種子を交ぜた粘土団子を撒く手法は、世界各地で砂漠の緑化にも活用されています。
最終的にコモンズ農園はどのような形になるのかについては、まだ決まっていません。自然農法として無農薬栽培をするのかどうなのか、これは追々、いろんな形で議論しながら、みんなで決めていければと思っています。
コモンズ農園では、「遊び」の要素が大切だと考えています、遊びというと悪く聞こえるかもしれませんが、すごく大事なことなのです。生きるうえでの余裕の空間、隙間のようなものだと思っています。たとえば、農家の方へのインタビューで、いろんな品種が一つになった木を作ってみたい、といったアイデアが出たりします。普段できない発想が生まれてくるわけです。
大柿:私は基本、農家の立場なので、遊びという部分で農業を直接捉えることはできませんが、廣瀬さんがおっしゃるように栽培するだけが農業ではないというふうにも思います。要するに、私自身はそういうことに関心があります。
たとえば、新規就農にはいろんなハードルがあります。私自身が一つのモデルケースとして、これから農業を目指す人に貢献できるかもしれません。
いずれにせよ、当然違う部分はあるにせよ、コモンズ農園とは、ベクトルとしては同じ方向を目指していると思うので、何か力になれることがあれば、ぜひ協力はさせていただきたいですね。
廣瀬:ありがとうございます。このプロジェクトはまだ始まったばかりで、完成までには長い時間がかかります。しかし、その過程そのものがこのプロジェクトの醍醐味でもあります。一緒に考え、作り上げていく中で、たくさんの新しい発見やつながりが生まれると確信しています。これからもこの農園が、地域の人々や訪れる人々にとって「新しい何か」を見つけられる場になればと思っています。ありがとうございました。