火の中にうかぶ千年の死

アーティスト 坂本 大三郎

熊野はおそろしい。そこにはおびただしい死のにおいがする。しかし、だからこそ人は熊野に惹かれるのである。

紀南アートウィーク2025–26「ややこしき いざなみ」熊野三山アート・リサーチ・プログラムに参加し、あらためて熊野を巡った。熊野を訪れるのは今回が初めてではない。これまでにも幾度か足を運び、そのうちの数回は吉野から熊野へと山々を歩き通す“奥駈け”と呼ばれる山伏の修行であった。山伏の文化に身を置いて二十年になる私にとって、熊野は単なる観光地ではなく、自身の実践の源流をなす特別な土地である。

熊野信仰を研究した五来重は、山伏修験が日本各地へ広がっていった背景に熊野山伏の活動があったと指摘する。とりわけ南北朝期に熊野修験が南朝方に与したことにより、北朝の勝利後にはその勢力が相対的に衰退し、各地の修験がそれぞれの独自性を前面に押し出すようになったという。出羽三山を拠点とする私自身の実感としても、羽黒修験のなかに熊野修験の影響を色濃く見出すことができ、その見解には首肯するところがある。

今回、紀南アートウィークに招待いただいた背景には、神倉神社の御燈祭(おとうまつり)を見学・参加するという目的があった。これまでにも何度か熊野を訪れてはきたが、東北を拠点としていることもあり、腰を据えてフィールドワークを行う機会はなかった。本リサーチでは、文献から知り得る熊野像とは異なる、現地に身を置くことでしか捉えられない立体的な熊野の姿に触れたいと考えた。


南紀白浜空港に降り立った私は、そこで紀南アートウィークのメンバーと合流した。空港周辺には椰子の木が立ち並び、本州最南端に位置する県らしい、南国的な景観が広がっている。空港は高台にあり、眼下には白浜町や田辺市の街並みが見渡せた。海岸には白い砂浜と青く澄んだ海が広がり、その風景はどこか現実離れした明るさがある。聞けば、この白砂はオーストラリアから輸入されたものだという。一方で、街にはかつて多くの観光客を迎えたであろう華やかな施設の名残が点在している。それはかつての経済成長の熱気と、その後の停滞を経た時間の堆積を思わせる風景でもあった。

私たちは紀伊半島南部を、西側から東側へと移動した。西側が観光地として演出された明るさをまとっているのに対し、東へ進むにつれて土地の表情は変わっていく。生活の匂いや土着的な気配が濃くなっていく、と言えばよいだろうか(西側も表層の装いの下には同様の匂いがあるだろう)。とりわけ新宮市には、私にとって小説家・中上健次の故郷という印象が強く重なっている。

ゴトビキ岩から新宮市内をみる

中上によれば、新宮は「観光というレッテルには間尺が合わない」「とらえどころのない町」であるという。伊勢路・大辺路・中辺路という三つの街道が合流するこの土地は、熊野の山々から切り出された木材を扱う材木商によって栄え、明治期以降は港湾商業が発展した。その繁栄ぶりから、かつては「熊野の東京」とも称されたらしい。

現在では、その「東京」らしさを見いだすことは難しい。数十年の歳月を重ねて黄ばんだ背の低いビルの白壁。雑草に覆われた空き家。軒下に吊るされた洗濯物や、錆びたトタンの壁と屋根。それらがどこか哀愁を帯びた懐かしさを漂わせている。国道沿いには牛丼チェーン店やコンビニエンスストアが並び、コピペされたかのような日本の風景を思わせた。遠くの視界には港と海が開けている。海から吹きつける湿り気を含んだ風が、街を囲む山々にぶつかり、雲を生み、その雲が太陽の光をやわらかく拡散させていた。

中上は御燈祭を題材に、近隣で実際に起きた七人が殺害された事件をモチーフとして脚本を書き、映画『火まつり』を制作している。中上は地元の人々に取材するなかで、「御燈祭に欠かさず参拝することが、その年を生きる息吹を与えてくれる」という趣旨の言葉を聞き、それを「確かにそうである」と受けとめている。また、共に映画をつくろうとした俳優に対しても、「とにかく御燈祭に上ってくれ」と語っていたと伝えられる。それだけ、この祭りが中上や地元の人々にとって切実で、重要な意味を持つ祭りであったことを感じさせるエピソードである。

ゴトビキ岩

新宮は山々に囲まれた土地であるが、麓から見て急にせり出した岩のように、ひときわ目につく権現山の一角に鎮座する神倉神社は、熊野信仰の原点と伝えられる聖地であり、ゴトビキ岩と呼ばれる巨大な磐座を御神体とする。見上げても、その岩はゴトビキ(ヒキガエル)を思わせる印象的な姿を示している。またこの岩は、『日本書紀』の神武東征に登場する天岩楯であるとも伝承されている。 

千四百年以上の歴史をもつという御燈祭は毎年二月六日に行われる。正月に戻らなくても二月六日には必ず里帰りするように命じる親もいるという。祭りに参加するのは「上り子」と呼ばれる白装束の男性たちである。祭り当日の午後になると、神倉神社の境内は女人禁制となり、男性も上り子以外は立ち入りを許されない。夕刻、上り子たちは装束を整え、神社へと向かう。

新宮節には、次のような一節がある。

「新宮よいとこ十二社さまの、神のまします良いところ。御燈祭りは男のまつり、山は火の滝下り竜」

火を掲げた男たちが山を駆け下りる姿は、まさに“下り竜”のごとく見えるという。アジアに残る蛇の信仰や民俗に関心がある私は、その光景を見るため麓に残ることにした。

日が暮れるにつれ、神社へと続く道には見物の人々があふれはじめた。入口付近は身動きが取れないほどの混雑となり、私は少し離れた駐車場から、山上で行われる祭りの様子を眺めることにした。十九時を過ぎる頃、山中に火が灯る。闇のなかでゴトビキ岩が燃えるように浮かび上がった。やがて法螺貝の音が響き渡り、歓声とともに競って火が動き出し暗闇を駆け下りていった。
 

きわめて単純な構造をもつ祭りである。しかし、その単純さゆえに、私はこの祭りをどのように理解すべきか戸惑いを覚えた。火とは何を意味するのか。なぜ人々は山を駆け下りるのか。そして、なぜこれほどまでの熱狂が生まれるのか。

燃えるような権現山


熊野信仰圏に目を向ければ、類似する火の祭礼として那智の扇祭りや、かつらぎ町の大松明押しが想起される。扇祭りには競争的要素は見られないものの、松明を携えて練り歩く点に共通性がある。また、大松明押しは花園の御田舞に付随する行事として行われ、松明を持った人々が集落を独特の所作で巡行する。いずれも芸能的要素と密接に結びついている点が特徴的である。


こうした祭礼を比較していくと、火祭りの要素は薄れるが、御坊市の御坊祭との関連も視野に入ってくる。さらに興味深いことに、これらの儀礼は、千葉県白間津の「オオマチ」と呼ばれる祭りとも通じる印象を持った。この類似は単なる偶然とは考えにくい。紀伊半島の那智勝浦、四国徳島の阿波勝浦、そして千葉の勝浦はいずれも黒潮文化圏に位置し、海民の移動とともに形成された拠点に同一の地名が付されたと考えられている。祭礼の形式もまた、その移動の痕跡をとどめているのではないだろうか。

白間津のオオマチ

オオマチでおこなわれるササラ踊り

さらに強い関連性を感じたのは、私が拠点とする出羽三山・羽黒山で行われる諸儀礼であった。羽黒山の大晦日に執り行われる松例祭では、新年を迎えるための火、すなわち浄火が生み出される。この点は、熊野における火祭りと共通している。


松例祭では、百日間にわたり潔斎精進を重ねた山伏たちによる験比べが行われ、かつて勝者が切り出した火は翌年の儀礼に用いられる聖なる火となり、一方、敗者の火は葬送などに用いられるとされ、生と死、再生と終焉を分かつ象徴的な意味を担っている。


この祭礼は羽黒山頂の聖域で行われ、かつては女人禁制であり、参加者が裸で儀礼に臨んだとも伝えられ、この日に山頂で女性を見かけると死ぬとされた。山の神が女性であると考えられたためであろう。また、夏に行われる山伏修行においても、修行の終盤には石段を駆け下りる競争が行われるが、その様子は松明を手に山を駆け下りる御燈祭の姿と重なる。

羽黒山の松例祭

ちなみに、かつての熊野詣では、先達を務める山伏が日中であっても松明を手に参詣者を導いたとされる記述が、足利義満の側室・北野殿による『熊野詣日記』に見える。彼女たちが被る市女笠が位牌を意味したように、浄土である熊野を詣でる参詣者は言うまでもなく死者として観念される存在である。また、『修験道無常用集』には、修験道の葬送行列において松明が先導し、それが「生死の迷闇を照らし、法身の慧燈(えとう)を表す」ものとされていたことが記されている。


松明の火は単なる照明ではなく、生と死のあわいを照らし出す象徴的存在であったといえるだろう。御燈祭において上り子たちの松明を掲げる姿が、どこか生死を超越したような言い難い気配を帯びて見えるのは、このような熊野に蓄積された千年の記憶が、いまなお祭りの根底に流れ続けているためなのかもしれない。

いまはこれらの事柄を詳細に比較する時間も文字数の余裕もないが、これら祭りを深く観察してみることで、その背後にかつての人々の心のありようの一つの側面を見出すことができるかもしれない。

上り子と松明

また、今回の熊野リサーチで気になった事柄について少し書き足したい。

私は以前から、熊野本宮において「油戸」と呼ばれていた場所に関心を抱いていた。そこは熊野本宮へ参詣した者が、ナギの葉や牛王宝印を授与される場であったと伝えられている。浄土として観念された熊野を詣でた人々が、これらの呪的な授与物を携えることで再び俗世へと戻っていく。そのような世界観がかつて存在していたのである。実際に熊野本宮を訪れた際、現在では所在すら明確でなくなったこの場所の痕跡を、何らかのかたちで感じ取ることはできないだろうかと考え、案内をしてくれた山田さんと話をしていた。すると、山形県の日本海沿岸にも「油戸」という地名が存在し、そこが熊野信仰との関わりを想起させる土地であることを知った。ただし、その地は紀伊熊野ではなく、島根の熊野から勧請されたと思われる要素があるという。紀伊半島の熊野信仰そのものについても、出雲・島根地域から移住した人々によってもたらされた可能性を指摘する研究者もいる。油戸という地名が古い信仰移動の痕跡をとどめているのか、それとも単なる地名の偶然に過ぎないのか、現時点では判断できない。しかし、その符合は強く興味を引くものであった。

ここまで見てきたように、私は熊野信仰の内部に、幾重にも折り重なった人々の移動の痕跡を幻視している。それは熊野の象徴的存在である三本足のカラスの姿とも重なって見えてくる。

アジア各地に伝わる古い神話には、本来は交代で天空に現れるはずであった十の太陽が同時に昇り、その灼熱によって大地が焼かれ、人々が苦しんだという物語が残されている。そこで弓の名手が九つの太陽を射落とし、一つだけ残されたものが現在の太陽であるとされる。そして射落とされた太陽は、三本足のカラスの姿をしていたとも語られている。

少数民族が多く暮らす中国貴州省の山間部の村

また、中国南部の山岳民族であるミャオ族には、残された太陽が山中へ隠れ、世界が闇に覆われたのち、ニワトリの美しい鳴き声に導かれて再び姿を現し、光が回復したという神話が伝えられている。この構造は、日本の天岩戸神話とも響き合うものである。

関東の利根川流域には、新年に太陽を象徴するカラスを描いた的を弓で射落とす祭礼が存在し、また各地には太陽を象徴する祭具を破壊する儀礼も見られる。これらは熊野とは異なるかたちで、カラスや太陽に関する神話的記憶を現在へと伝えているものではないだろうか。そうした記憶は、アジアの古層文化に広く共有されたものであり、その射程は広大である。

私たちの深層で響き続けている音は、世界の各地において共通している。しかし土地や時代によって、その奏で方は異なる。その根源的な響きを聴き取り、それぞれの手にある楽器によって変奏すること。そこに、原型的な芸術へと開かれた表現の可能性があるのではないかと私は考えている。その意味において、熊野に蓄積された生と死によって織り込まれた物語は、いまなお美しい。

著者紹介:坂本 大三郎

千葉県出身。20年以上にわたり修験道・山伏文化の実践を続け、現在は山形県を拠点に活動している。洞窟、山、川、森といった自然環境を制作・思考の場とし、身体行為・儀礼・フィールドワークを通じて、神話・民俗・信仰と現代社会の関係を問い直す作品を発表してきた。
その活動は、展示空間におけるインスタレーションや映像作品にとどまらず、洞窟籠りや山中での修行的パフォーマンス、土地固有の祭祀や記憶の再解釈など、「生き方そのものを媒介とする芸術実践」として展開されている。近年は、国内外(韓国、東南アジア、ヨーロッパなど)での展示やコラボレーションも行い、芸術・儀礼・経済・共同体の関係を横断的に探究している。

▼主な展覧会・プロジェクト
『PLANETARY SEED』(100 Tonson Foundation, タイ, 2024)
『AIGU OM! 』欧州文化首都プログラム(エストニア, 2024)
documenta 15(ドイツ, 2022)
Reborn-Art Festival((2019,2021)
『ホーリーマウンテンズ展』(モエレ沼公園, 札幌, 2016)
瀬戸内国際芸術祭2016〈秋〉(香川)
山形ビエンナーレ(2014, 2016)

ドキュメンタリー映画『METS/森』出演(エストニア,2025)

▼書籍
『山伏と僕』(リトルモア, 2012)
『山伏ノート』(技術評論社, 2013)
『山の神々』(エイアンドエフ, 2019)