「山路紙」から世界を考察する ~龍神村から届けるメッセージ~

〈今回のゲスト〉

美術家 奥野誠/美術家 奥野佳世
1984年に和歌山県日高郡龍神村(現田辺市龍神村)にご夫婦で移住し、「龍神村国際芸術村」の運営に携わる。廃校を活用した地域おこしを開始し、地域の自然、文化、歴史の聞き取り調査などをもとに、途絶えていた龍神村「山路紙(さんじがみ)」を復活させる。紙の文化と森林についてのメッセージを伝えながら、紙漉き技法を用いた造形作品の制作による表現を続けている。また、和歌山県環境学習アドバイザーとして、楮(こうぞ)の原木採取から紙を漉くまでの行程を体験する授業なども行っている。誠氏は2016年に和歌山県名匠表彰を受賞し、2018年には中国上海にてご夫婦で二人展を開催している。

〈聞き手〉
藪本 雄登 / 紀南アートウィーク実行委員長

「山路紙」から世界を考察する
~龍神村から届けるメッセージ~

目次

1. 奥野誠さん、佳世さんご夫妻のご紹介
2.「紙」から見えてくる世界の課題
3. 奥野さんと山路紙
4. 龍神村での活動

1.奥野誠さん、佳世さんご夫妻のご紹介

出典:龍神村観光協会

藪本:
さっそくですが、奥野誠さん、佳世さんご夫婦が龍神村で活動を始めることになった経緯や、龍神村の紙漉きである「山路紙(さんじがみ)」のお話しなどを教えていただけますか。

誠さん:
僕は大阪にアトリエをかまえて、造形作家として個展やグループ展などで作品を発表しながら美術学校の講師をしていました。佳世は大阪の公立中学や高校で美術の先生をしていました。

2人とも大阪で教壇に立ちながら作品を発表していたんですが、製作に専念するために学校勤めの仕事はやめることにしました。それが1984年の3月のことです。その年の春に、佳世が京都の「アートスペース虹」で個展を開いたんですが、そこに嶋本昭三(しまもとしょうぞう)さんが来られたんです。もう亡くなられたんですが、「具体美術協会」という現代美術のメンバーの方です。

嶋本さんは京都教育大学の美術の教授だったんですが、龍神国際芸術村の村長をされていました。それで「去年龍神村に芸術村をオープンさせたんやけど、誰も住む人がおらんねん。誰か住む人おらんかなあ」って言われたのがきっかけで私たちが龍神村に来たんですよ。ちょうどその頃二人とも仕事を辞めることになっていたしね。僕が31歳の時です。

僕自身も芸術村がオープンした時の新聞記事を見て、すごく面白いなあと思っていたんです。特に「村おこし」のテーマに、芸術を持って来ているっていうのが面白いと思いました。

佳世さん:
私は嶋本さんに出会う前から、何故か、山村の自然の中の「芸術村」に住んで芸術活動をする、というイメージと思いを持っていました。家に帰ってからその話をしたら、彼はとても乗り気でした。

誠さん:
芸術による村おこしと言っても、当時の過疎地というのは、いかに都会から文化を持ってくるかという発想だったんですよ。目先の村おこしの業者と一緒に企画をやっても、逆に「村つぶし」にしかならないなあと思ったんです。それで昔の歴史の掘り起こしというか、山村に眠っている文化の掘り起こしを行う中で、「山路紙」(*) という紙漉きにたどり着いたんです。

(*)山路紙・・・龍神村では古くから紙漉きが行われていました。その紙は「山路紙」と呼ばれ、この地の主要な産物のひとつであり、山村の暮らしと共に、さまざまな用途に使われていました。戦後間もなくいったん途絶えましたが、旧龍神国際芸術村アートセンターにおいて、1984年より紙を漉き始め、山路紙は復活しました。以来、草木染、自然染色や新たな技法を加え、製作を続けて今日に至っています。日高川上流地域は楮の産地であり、「山路紙」は地元産の紀州楮を薪で煮熱し、水と太陽で白く晒し、すべての工程を手作業により製作しています。

2.「紙」から見えてくる世界の課題

誠さん:
佳世の方も紙の見直しというのをずっと意識していたんです。美術の授業でも紙を使うでしょう?森林資源と紙の問題というのは今も昔もずっとありますよね。

藪本:
なるほど。環境問題ということですね。

佳世さん:
子育て中でもありましたし、環境については大変気になっていました。

私が京都の個展で発表した作品は、大きな和紙に毛筆で様々な色彩で描く、アクションペインティングのような表現で、紙の中に入り込みたい衝動にかられながら描いていました。ひと月後に移り住んでから、かつて紙が漉かれていたということを知り、これや、と思いました。

誠さん:
村の文化の掘り起こしを始めたのが紙漉きをするきっかけなんですが、龍神の紙漉きというのは戦後途絶えていたんですよ。参考になるものは何も見つからなかったので、道具も自分で作って、材料も自分で探しました。「地元で全部調達できなかったら紙漉きはしない」と決めたんですが、最終的に、全部地元で手に入りました。

藪本:
そうなんですね。

誠さん:
山路紙の原料は楮(こうぞ)ですが、原木を蒸して剥いた皮が原料になります。楮を生産する農家が一軒だけ残っていて、集落の人たちがそこに集まって作業するのを、毎年家族で手伝いに行き教わりました。それで紙漉きを始められました。今は隣村の農協が出荷しています。そうは言っても僕が紙漉きを始めた30数年前と比べると、高齢化で出荷量が10分の1になってますね。

(*)楮・・・和紙の原料の一つ。奈良時代から利用され、紙の需要とともに室町時代から栽培が盛んとなった。江戸時代には四木三草の一つとして幕府・諸藩が栽培を奨励した。

参照:旺文社日本史事典 三訂版

参照: 日本特用林産振興会 「和紙原料の生産・流通状況」

藪本:
この地域では、奥野さんが和紙の最後の担い手さんになるのでしょうか。

誠さん:
そうですね。ただ、僕の場合はそもそも職人を目指すという意識はありませんでした。「復活させたい」という思いはありましたが、伝統をどうのこうのっていうのは最初は考えていませんでした。でも実際にやりだすと紙からいろんなものが見えてきました。

藪本:
どういうことでしょうか。

誠さん:
例えば、紙は紙になる前は何だったのでしょうか。

藪本:
木ではないでしょうか。

誠さん:
そうですね。では、どこに生えていたどんな植物なんでしょうか。もしかしたらこの紙は、シベリアのどこかで違法伐採された木から作られたものかもしれないわけですよ。

藪本:
そういうことですか。そんな可能性もあるのですね。

誠さん:
そうなんですよ。アフリカで外資企業が切った木かもしれません。

佳世さん:
インドネシアの野生動物が住んでいた、原生林の木かもしれない。 

誠さん:
日本の山の間伐材かもしれません。あるいは山に道を作るために切った木かもしれない。それはわからないわけですよ。

自分で紙を漉いてみると、紙は森からの恵みだということに 気付かされます。

それから、楮で作られた紙の白は自然の白さなんですよ。それに対して、木材パルプの紙は塩素漂白され、しかも蛍光色で染めたりもするわけです。

藪本:
なるほど。そうなんですね。

誠さん:
そしたら合成洗剤で洗ったあの白さは何なんだろうとかね、紙をきっかけにいろいろなことを考えるわけですよ。合成洗剤って何でできてるかというと、あれは石油の余りものだと言われています。

誠さん:
それから、日本でダイオキシンが発生する原因は、主にごみ焼却場なんですが、なぜかというと、あんなにごみを燃やして処理する国なんて先進国では日本ぐらいだからです。問題になり大気中への放出は規制されるようになりましたが。               

そして、ごみ焼却場の次に発生させていたのは、製紙工場なんですよ。塩素漂白の過程です。紙漉きをすることで環境問題を考えるきっかけになりました。

他にも考える契機になったことがあります。みなさんは「和紙は日本の伝統文化だ」というけれど、もともとの起源は中国です。それが日本にもたらされ、技術的により高められ、洋紙が入って来て以降、和紙と呼ばれるようになりました。日本において明治以降、朝鮮・中国の文化がどう扱われてきたのかを改めて考える必要があります。日本の教育の中では、中国と朝鮮の近代の文化は教えられていません。紙からいろんなことが見えてくるというのはこういうことなんですよ。

3.奥野さんと山路紙

藪本:
奥野さんは龍神村の文化を掘り起こしていく中で、どうして「山路紙」に辿り着いたんでしょうか。

誠さん:
紙漉きにぶつかったのは、もともと僕は絵描きだったからでしょうね。「絵を描く」というのは「紙に描く」ことがスタートです。

藪本:
もともと奥野さん自身が「紙」の方を向いていたわけですね。

誠さん:
とりあえずはそうなんだったんでしょうね。まさか紙の作家になるとは思ってなかったけどね(笑)。

藪本:
なるほど。今も絵は描かれていますか?

誠さん:
いろんな作品を作るので、その過程でいろんな画材を用いて絵を描きます。発表する平面作品は草木染で染めた紙の繊維で絵を描いていきます。ただ、絵を描くということを、広い意味で表現活動ととらえれば、紙を漉くという行為自体が僕にとっての表現活動と 言えます。昔、東京都美術館で一週間、紙漉きパフォーマンスをしたこともありました。

辺野古の海をテーマにジュゴンを描いたこともあります。辺野古にはジュゴンがいたんですよ。ジュゴンがアマモ(*)を食べる場所に、米軍基地移設でコンクリートブロックを入れていることへの問題提起です。そのジュゴンの絵は上海で売れました。その時に取材に来ていた女性のディレクターが買ってくれました。

(*)アマモ・・・代表的な海産顕花植物。(中略)砂泥質の浅い海底に生え、大きな群落(藻場(もば))をつくる。

藪本:
上海での展示はいつ実施されたのですか。

誠さん:
2018年です。こういった作品を作っているので、いわゆる絵を描くという表現活動は中断してはいないんです。

藪本:
奥様と二人で作られているんですよね。

誠さん:
そうですね。色を草木染で染めるのは彼女の仕事なので、素材作りの段階での役割分担はあります。紙作りは素材が優先です。それに対して絵というのは非常に抽象的なものです。絵の具はニュートラルな画材だけど、紙というのは素材として完全に物なんです。造形的表現では共同制作は難しいので作品は別々に作ることがほとんどですね。佳世の発想で作品が生まれる場合もあります。

4.龍神村での活動

藪本:
奥野さんが製作活動をしている場所はどちらなのですか。

誠さん:
芸術村で紙漉きを始めた最初のころは、芸術村にある廃校の元中学校に住んでいました。教室の中でブルーシートをひいて紙漉きをしていたんです。でも、そんな状況ではそれ以上仕事が発展しないので、校舎の裏に掘っ立て小屋を作ろうと思ったんです。それで紙漉きをするための小屋を建ててもいいか村役場に話をしに行ったんです。そしたら「ちょっと待って。奥野さんが山路紙を復活させたので、今議員さんが紙漉き場を立てる予算を提案しています。議会で承認されたら、夏から建設にとりかかります」って言われたんです。僕は全然知りませんでした(笑)。

藪本:
すごいですね。龍神村が作ってくれたんですね。

誠さん:
そうなんですよ。でも数年前に市町村合併があって龍神村が田辺市になったでしょう?そしたら僕らが住んでた建物の隣の小学校が統廃合になって、新規の学校の基準に合わせるための校舎増築の場所がそこしかなかったそうです。

藪本:
それは大変ですね。

誠さん:
家は別に建てていたので住むところは問題はなかったんですけどね。でも仕事はそのまま廃校舎でしていたんです。

だから仕事場にしていたところがなくなる事になったんですよ。でも龍神村は僕に出て行ってくれとは言えないんですよね。龍神村時代に芸術村ということで僕らを呼んで来てもらったわけでしょう。龍神村の行政の人たちにも奥野さんの仕事場を 何とかしないとっていう意識があったので、僕も共存できるような提案をしました。田辺市も担当者をつけて委員会を作っていろいろ検討した結果、元母子センターの施設を再生して「田辺市山路紙保存伝承施設」として開設してくれました。

藪本:
作品の管理に湿度は大丈夫なんですか。

誠さん:
梅雨のときは乾燥機を入れますね。こういう建物はすぐ結露するんで。

藪本:
そうですよね。ところで、楮の木の皮はいつ剥くんですか。

誠さん:
冬の間の木が冬眠している時に刈り取りをします。そうすることで木を枯らすこと無く、毎年成長を続ける同じ木から収穫することが出来ます。束にしたものを釜戸で蒸して皮をむきます。紙を漉くときは、釜戸やストーブをたいた灰を使って楮をやわらかく煮るんです。極力薬品は使わずに、灰のアクでやわらかくします。ストーブをたく燃料も廃材を使っています。

藪本:
紙作りはどこかで修行されたんですか。

誠さん:
昔、龍神で紙漉きをしていた人に聞いたり、全国の産地を 訪ねたりしながらの独学です。先生がいなかったんでね。先生がいないというのは問題なところもありますよ。全部自己流ですから。でも縛られるものがないので自由です。時間はかかりましたが失敗も重ねながら、紙漉きの基本となるものを発見することが出来ました。

手漉き和紙の業界も、明治になって西洋紙との競争に直面しました。機械化もする中で、道具が変化したりしてね。僕がやってる昔の龍神とか高野紙(こうやがみ)とかの和歌山の紙は、明治時代以前の古い作り方の紙なんです。

今の紙漉きさんのほとんどは、明治時代以降のやりかたが多いんですよ。僕はそれを否定するつもりはないんだけどね。紙は夏場すぐ腐るんです。生ものですから。だから今の紙漉きさんは紙漉き槽にホルマリンを入れるのは当たり前だし、乾かすのに紙用乾燥機を使うのも当たり前なんですよ。機械で叩解するのも当たり前ですが、でもそれはそれでいいんですよ。僕は手で叩きますが、こんなに手間がかかるのはやってられないでしょう。

みなさんはこの紙のことを「和紙」と言われるけれど、僕は和紙という言葉はあまり使わないんですよ。和紙って言った方がより伝わるときは和紙って言いますが、あまり使いたくないですね。

藪本:
それはなぜですか?ルーツが「和」ではないからですか?

誠さん:
今の日本は「和紙は日本の文化です」って言えるだけのことをしているのかっていう気持ちがあります。今は和紙と言っても原料は輸入が多いです。高度経済成長の初めごろに原料の価格が高くなってきたので、原料の楮(こうぞ)の苗をタイへ持って行って向こうで栽培し白皮にしたものを安く購入したんですよ。ところがタイも経済成長で人件費が上がったので、ちょっと前まではラオスでやってましたよ。今は中国です。

藪本:
そうなんですね。和紙の流通はどうされているんですか。

誠さん:
展覧会を開いた時に販売したり、こういう紙だけじゃなくて、ふすま紙や障子紙、壁紙などの注文を頂いたりします。展覧会では作品を売らないといけないですしね。あと、村にギャラリーがあってそこでも紙を販売しています。

佳世さん:
建築家や施主の依頼で制作することもありますね。和紙の専門店で扱ってもらったり。

藪本:
完全手作業ですごいですね。この作り方をしている人は日本全国でほぼいないんではないですか。

誠さん:
そんなこともないですよ。日本のあちこちで手作りにこだわり頑張っている産地も、辛うじてまだありますよ。

藪本:
それでは最後にお伺いしたいのですが、奥野さんが龍神で山路紙を作られていますが、次の担い手の方は出てきているんですか。

誠さん:
息子は、子供の頃から手伝ってくれていましたし、一通りの工程をこなせるし、継いで欲しいとも 思っていますが、子供もいるし、家族も養わなければならない。やはり食えないとやっていけないからね。そこは問題ですね。

でも、龍神村には僕らが来た後にもいろんな人が入村しているんですよ。龍神村って移住者の多いところでね。田辺市になって寂れましたが、個性豊かな人たちが移り住んでくれたのは「「芸術村」」の成果かな、何しろ最初よそ者はうちの家族だけでしたから。2013年には30周年記念っていうのを企画して廃校でイベントをやったんですよ。体育館に大きい紙をはりあわせてテントを作ったりしてね。息子の中学校の校長先生とかに手伝ってもらってね。

出典:龍神国際芸術村開村30周年記念芸術祭
龍神国際芸術村開村30周年記念芸術祭Art in 龍神村において展示された巨大和紙テント
写真提供:奥野誠さん

藪本:
漁師さんや、きこりさん、製炭士さんのお話を聞きに行きましたが、やはり後継者の方がなかなかいないということでしたね。山路紙も後継ができたらいいですね

お忙しいところ貴重なお話しありがとうございました。

<編集>
紀南編集部 by TETAU