コラム

「コモンズ農園」の歴史的文脈を語る(前編)

住友:このコラムでは、今回の紀南アートウィーク2022において廣瀬智央さんが試みたことを、メールによる往復書簡という形式で美術の歴史を参照しながら振り返ってみたいと思います。全体タイトルが「みかんマンダラ」という名称で、アジアの9組のアーティストが「実り / 果実を巡る旅」、「菌と共生 / 菌根ネットワーク」、「土と根 / 見えない根を探る」という三つのテーマを持つ会場で展示を行いました。そのほとんどがアジアで活動するアーティストでしたが、廣瀬智央さんだけミラノに住む日本人作家です。

 彼はオブジェやドローイングの作品も展示したのですが、地域の農家が共同出資した「秋津野ゆい」の倉庫を会場とした展示では「コモンズ農園」をつくる提案をおこないました。また、いつか農園ができるまで希望者に蜜柑の苗木を育ててもらう《みかんの苗木の旅》も開始しています。これらは、農業とアート、哲学、人類学、植物学、デザインなどの接点を探る「みかんコレクティブ」という活動を通して蜜柑についていろいろな角度から考える機会を持ったのですが、それを経て参加者がお互いの知恵や経験を持ち寄って運営する「農園」の実現を目指すプロジェクトです。

 その目的は、大まかに言うと、商品の生産という目的に特化している農業の営みを、植物を育てる文化的な営みとして見直してみようという試みです。こうした植物や自然と関わる作品は近年芸術祭で数多く見ることができますし、「みかんマンダラ」にも参加したニャサン・コレクティブのトゥアン・マミがドクメンタ15ではベトナム移民たちのための農園を運営していたことも思い出されます。気候変動がもたらす危機、人間中心主義の再考、移動を余儀なくされる人々の増加、など同時代の差し迫った問題が作品や実践の背景に存在し、多くの人がこうした動向に関心を向けていると感じます。

 ただ同時代性が強調されるいっぽうで、これらを芸術の歴史的な文脈と接続させて考える機会は不足しているように思えます。なぜ、農業の実践や周縁化され不安定な状況にある人々と芸術が関わるのか、そうした疑問について過去の芸術を眺め直すことで考えてみる必要があるのではないかと感じています。

 そこで、30年前にイタリアに移住した廣瀬さんにとって歴史的文脈として重要なアルテ・ポーヴェラの展覧会を2005年に企画した金井さんに声をかけさせてもらいました。この展覧会は、今や美術館の展示室にオブジェとして鎮座しているアルテ・ポーヴェラの作家たちの作品を、発表当時の状況を検証することで拡張し続ける資本主義やアメリカのポップアートへの抵抗として描き直した点がとても印象的でした。その後も、アルテ・ポーヴェラの調査を継続されるなかで、現在関心を向けられていることをまず教えていただけないでしょうか。

スーツを着た男性たち

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廣瀬智央〈みかんの「苗木の旅」〉2022年、「秋津野ゆい」の倉庫の展示会場
左から「みかんコレクティブ」参加農家の原拓生さん、参加者の高校生、廣瀬さん、参加者の高校生
写真:下田学(coamu creative)

金井:2020年に前橋で、昨年はヴァンジで廣瀬さんの作品を拝見して、その明澄な世界に強く惹かれました。今年は紀南での「みかんマンダラ」ということで、興味津々だったのですが、残念ながら伺いそびれてしまいました。ただ、その横断的・持続的な活動は始まったばかりとも言えそうです。「コモンズ農園」楽しみですね。紀南の空と海も見てみたい。いずれ近いうちに。

 さて、その紀南での廣瀬さんの活動ですが、俯瞰すれば、近年世界各地に広がる芸術動向によく接していると思います。すなわち、オブジェクトよりもプロジェクト、制作よりも実践、個よりもコレクティヴ、芸術よりも術といった傾向で、そこには多くの場合、政治・経済・環境・人間をめぐる切実な問いや意識が、濃淡こそあれ注がれています。その同時代性、共時性自体たいへん興味深い。私は実見していないのですが、ドクメンタ15が示したような状況でしょうか。一方、住友さんが指摘されるように、そうした芸術実践の史的文脈も大いに気になるところです。たとえば、その先駆ないし萌芽として60年代芸術を捉え直す、少なくとも確認しておくことは、現状を批判的に分析するうえで、かなり有効な手立てだと思います。その60年代芸術ですが、廣瀬さんと縁の深いイタリアについて言えば、まずはアルテ・ポーヴェラということになりますね。

 豊田市美術館でアルテ・ポーヴェラ展を開催したのは2005年のことです。「自然の叡智」をテーマに掲げる愛知万博にむすびつけて、ともあれ予算を確保し、トリノやカステッロ・リヴォリの美術館から1970年前後の歴史的作品を運び込みました。つまり展示としては相当作品本位で、「名作」志向だったかもしれませんが、図録ではそうした作品が制作された状況の説明に意を尽くしました。

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「Arte Povera 貧しい芸術」展(豊田市美術館、2005年)の図録

 ところで私がアルテ・ポーヴェラ作品をじっさいに見たのは1995年の、たしかヴェネツィア・ビエンナーレにおいてです。同地に留学していた時分です。ちょうどボスニア紛争がNATOの大規模な介入で終結する時期で、近所のバールでの話題もたいていいつものサッカーか目下の紛争。とくにイタリアの基地から飛ぶ米軍機がアドリア海に不使用弾を投棄する事態は、ヴェネツィアの産業を脅かす問題でした。難民問題も紛争地から遠くないヴェネツィアでは政治の争点でした。当時の市長は建築大の美学の先生でもあったマッシモ・カッチャーリ。かつてトニ・ネグリの盟友としてヴェネトの労働運動に参加した彼の存在は、この時期のヴェネツィアの政治・文化にとっては決定的だったと思います。主著『アーキペラゴ(多島海)』も市長時代の作。同書では中心やヒエラルキーのない多元性に支えられた差異の共在が主張されます。1968年をくぐり抜けた彼の思考は、20世紀末のヴェネツィアにその余焔を保っていたように思います。

 話を戻すと、そうした90年代ヴェネツィアに燻る反グローバリズム、あるいは端的に言えば反米的なムードが、私の遅まきながらのアルテ・ポーヴェラとの出会いにも、なんらかの影響を与えたのでしょう。要するにアルテ・ポーヴェラの68年的なエートスを95年のヴェネツィアでは見逃せなかったということです。住友さんが指摘されるように、2005年の豊田においてアルテ・ポーヴェラの「拡張し続ける資本主義やアメリカのポップアートへの抵抗」という側面が強調されていたとすれば、それには上のような私の個人史によるところも多分にあるのではないかと思います。

 さて、ご質問への応答をさらに引き延ばすようで申し訳ないですが、アルテ・ポーヴェラの誕生と変容について、ここで簡単に整理しておきましょう。

 起点は1967年9月のジェノヴァでのグループ展です。新進批評家ジェルマーノ・チェーラントのキュレーション。当初、彼は修辞や意味、模倣、コンヴェンション抜きの純粋な現前としてアルテ・ポーヴェラ(貧しい芸術)を定義します。ですから、金属パイプは金属パイプとして、土塊もそれとして、新聞紙もそれとして呈示されます。もの自体が重要だったわけではありません。むしろAはAである、といったトートロジー、徹底的な非-表現が肝心だったようです。ところでこのアルテ・ポーヴェラには実は当初からチェーラント本人によって対立項が設定されていました。すなわちアルテ・リッカ、「豊かな芸術」です。合衆国や英国のポップ・アートがこれに当たります。この点にアクセントを置くと、合衆国的な技術文明や消費文化に対抗する運動としてのアルテ・ポーヴェラという配置もはっきり見えてきますね。反米的な含みは、じっさい、チェーラントが同年11-12月の『フラッシュ・アート』のなかで、アルテ・ポーヴェラの実践をゲリラ戦になぞらえていることからもじゅうぶんに窺えるでしょう。言うまでもなくベトナム戦の時代です。

 ところが翌1968年になると、チェーラントの言説に微妙な変化が生じます。トートロジーよりも「ノマド的振る舞い」や「直感的なまでに自由な行動」が語られ、実践的、行動主義的な側面が強調されます。あわせてアルテ・ポーヴェラとして括られる作家・作品にも変化が生じてきます。そして1969年、著書『アルテ・ポーヴェラ』の出版となるわけですが、そこにはリチャード・ロング、ヨーゼフ・ボイス、ブルース・ナウマンらの名も含まれていました。冒頭部分は以下のような調子です。

  動物、植物、鉱物が芸術の世界で一斉蜂起している。芸術家はそれらの物理的、 化学的、生物学的な可能性に引き寄せら
  れ、世界の事物の、生を与えられたモノとしてではなく、魔術的、驚異的事象の作り手としての展開に耳を澄ます。単細胞
  生物のように、芸術家は自らを環境に巻き込み、擬態で環境に身を隠し、自らの知覚の関を拡張する。つまりモノの世界と
  の新たな関係を開くのだ。(Germano Celant, Arte povera, Mazzotta, Milano, 1969, p. 225. )

さらに次のような主張も示されます。

  同調しないために順応しよう。その「自然らしさ」から飛び出して、できあいの次元から絶えず逃げるのだ。芸術家や知識
  人、画家や彫刻家の役割を廃止せよ。そして知覚すること、惑受すること、呼吸すること、歩くこと、聞くこと、人間とし
  ての習性に立ち返ろう。(Ibid., p. 227.)

 明らかにチェーラントは、人と環境との相互作用からつくりあげられる統合的経験のうちに芸術を捉えるデューイの思想に接近しています。もはやトートロジーをもって「貧」を定義することはしません。69年の時点で、環境への接近という行為性と、その過程でもたらされる一種の多素材主義こそが、アルテ・ポーヴェラの核心となっていたのです。

 さて、その後のアルテ・ポーヴェラですが、1971年にミュンヘンでグループ展が組織されて以後、まとまった動きはありませんでした。作品展示という行為自体、結局、アルテ・ポーヴェラの実践・経験志向とうまく馴染まなかったということでしょうし、「熱い秋」が「鉛の時代」へとすっかり翳り、経済的にも冷え込むイタリアの社会状況のなかで、実験や自由、変化を謳う芸術実践に光が当たらなくなったのかもしれません。やがてトランス・アヴァングァルディアが出てくる頃ですね。

 あらためてアルテ・ポーヴェラが注目を集めるのは、約10年後、ポンピドゥ・センターで「イタリアのアイデンティティ」(1981年)や、トリノで「一貫性のなかの一貫性:アルテ・ポーヴェラから1984年まで」(1984年)が開催されて以後のことなのですが、その時分にはアルテ・ポーヴェラもイタリア20世紀美術史の一コマとして、つまり展示用作品として物質的に供給・紹介され、さらには購入・収集されるようになっていました。このあたりの経緯は多くのコンセプチュアル・アートと同様かもしれません。

 さて、以上のようにたどってみると、試行から行為、そして作品–モノへと収束していくアルテ・ポーヴェラ史がよくわかると思いますが、そうした歴史が、80年代から遡及的にーある意味では物理的な作品重視でー整序・編集された点を見逃してはならないと思います。また、その構成アーティスト12人、すなわちアンセルモ、ボエッティ、カルツォラーリ、ファブロ、クネリス、マリオとマリザ・メルツ、パオリーニ、パスカーリ、ペノーネ、ピストレット、ゾリオ(十二使徒のようですね)が、おおよそ固められたのも、ようやく80年代に入ってからであったことは忘れてはならないでしょう。つまり、現代美術史のなかで正典化されたアルテ・ポーヴェラには、そもそもその外部や例外、ヴァリエーションが相当あっただろうということです。むしろ、そうした“外典”との関係こそが、じつは “正典”アルテ・ポーヴェラを律してきたのではないかと私は考えています。そして、この複数形のアルテ・ポーヴェラ(いわばアルティ・ポーヴェレですね)の抱えるズレや矛盾にこそ、現代の芸術と強く共鳴するものがあり、ひいては廣瀬さんの実践とも重なる要素があるのではないか。そう思いつつ、広義のアルテ・ポーヴェラや、アルテ・ポーヴェラの傍らで進められた展示や実践の紹介をしたいところですが、ちょっと話が長くなったかもしれませんね。今回はひとまずここまでとさせてください。

住友:NATOがボスニア戦争で爆撃を繰り返していた1995年のヴェネツィアで金井さんが吸った政治的な空気が、アルテ・ポーヴェラをベトナム戦争や資本主義への抗議運動と結び付けていたのですね。その体験が、後に残された展示作品だけを通した理解では見過ごされてきた特徴に目を向けさせた。しかし、それに限らず、その後美術館に残された物を扱う学芸員として仕事をされた体験も正典と外典を確定させる制度に対する疑いを投げかけ、外典との関係こそが正典を律してきた、という瞠目すべき指摘を導き出しているようにも感じます。その視点から、どのような複数形の「アルティ・ポーヴェレ」像が描かれるのか、大変興味をおぼえます。

 イタリアはカッチャーリに限らず、脱中心や差異の共存といった思想が芸術や文化の随所に現れ、垂直的な重さではなく軽やかさとして感じられ、それが私にはとても魅力的です。廣瀬さんとの会話には、イタロ・カルヴィーノの名前もしばしば登場します。それはもしかしたら彼の作品の「明澄さ」にも通じる特徴ではないでしょうか。例えば、ガラスや石の球体をプラタナスのような葉っぱの上に置くだけの作品は、やがて水分が抜けていくと球体を大きな掌が包み込みこんでいるように見えてきます。質感の全く異なる鉱物と植物がただ置かれただけの作品なんですが、思わず微笑んでしまうような明解さがあります。

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廣瀬智央《無題》、葉、鉛ガラス、クリスタル、翡翠、碧玉、玄武岩、1993年 写真:Tartaruga

 ただ物が置かれただけ、とも言えるような作品をめぐり、チェーラントは社会の文脈を複雑に抱え込んだポップ・アートを「アルテ・リッカ」と呼び、それに対して、AはAであるというトートロジーによって明確な同一性を示す作品を「アルテ・ポーヴェラ」と称していたということですが、その対比にはどんな意図が込められていたのでしょうか。「動物、植物、鉱物が芸術の世界で一斉蜂起している」というのは、差異の共存を宣言する言葉としてとても印象的です。それは動物や植物や鉱物が、自分以外の何ものにも所属せず、誰によっても名付けられない状態を主張していたということなのでしょうか。

 このトートロジー的解釈からノマド的実践へ、統合的経験へとチェーラントの言説が変容していく理由について、どのように理解すればいいのか、ぜひ金井さんにお尋ねしたいと思っていました。環境への接近、経験や行為の重視は、はたして移行なのか、それともすでにトートロジー的作品にも萌芽があったとみるべきなのでしょうか。

 1969年にはハラルド・ゼーマンが企画した「リヴ・イン・ユア・ヘッド:態度がフォルムになるとき」(クンストハレ・ベルン)に、アルテ・ポーヴェラのアーティストたちはカール・アンドレ、ロバート・モリス、リチャード・ロングらと共に参加します。結局のところ、コンセプチュアル・アートも同じく、展示されるのは物質やドキュメントで、理念や発言と矛盾する面も指摘されるようになります。多くの作品がギャラリーで売られ、「名作」とされ、アーティストも「巨匠」と呼ばれるではないか、というように。コンセプチュアル・アートの動向を出版物の記録年譜として示した「6年間:1966から1972年における芸術の非物質化」では、すでに出版された1973年の時点でこの矛盾を著者のルーシー・R・リパード自身が指摘していました。

 しかし、それのみならず、残された作品をめぐってあれこれ繰り出されてきた言説が「概念」を重視し、知的な制度批判の役割を担ってきたコンセプチュアル・アートについて、彼女はもっと行動や経験を志向していたと見なしてもよさそうです。1968年2月に「Art International」誌で発表された「芸術の非物質化」(ジョン・チャンドラーと共著)は、「ウルトラ・コンセプチュアル・アート」とか、「ハイリー・コンセプチュアル・アート」という言葉が使われ、今後の非物質化の進展に期待を込める、いわば先導的な役割を果たした文章でした。ちなみに、そこで具体的なアーティスト名として挙げられるのはマイケル・スノウとジョン・ケージです。その後、同年秋にアルゼンチンに渡航したことで「政治化」したと彼女ははっきり述べていて、作品そのものが政治的に見える必要はないが、アーティストがどう作品を扱い、どこでどのような機会に作り、誰にどのように見せるのか、それらすべてが生活スタイルと政治的状況の一部なのだ、と述べています(p.8)。そして、1969年からは彼女自らが企画した展覧会(開催都市の人口がタイトルとなった通称「ナンバー・ショウ」)が実施されます。その3つ目「2,972,453」展と4つ目「c. 7,500」展について、「六年間」の1997年に書き足された序文でリパードは、こう述べています。

  廉価で、一時的で、非抑圧的な、コンセプチュアルな媒体(ヴィデオ、パフォーマンス、写真、物語、テキスト、行動)
  そのものが女性たちの参加、アートワールドの壁に穿たれた穴を通して活動することを促していた。公然と若い女性アーテ
  ィストをコンセプチュアル・アートとして紹介することによって、物語、ロール・プレーイング、見せかけや変装、身体と
  美に関すること、さらに断片、相互関係性、自伝、パフォーマンス、日常、そしてもちろんフェミニストの政治など、いく
  つもの新しい主題と手法が登場した。(Lucy R. Lippard, Six Years: the dematerialization of the art object from 1966 to
  1972…, 1973/2001, University of California Press, p.xi)

 これらの展示に含まれていたアーティストには、エイドリアン・パイパー、ナンシー・ホルト、エレノア・アンティン、ジェニファー・バートレット、ローリー・アンダーソンなどがいます。つまり、ソル・ルウィット、カール・アンドレ、ダグラス・ヒューブラー、ロレンス・ウィナーなどの還元的な形態を持つ作品とはかなり異なる作品であることがはっきり分かります。少なくても、今日の私たちが正典とみなす作家たちとは異なる、外典が彼女自身によって示されているように思えます。このリパードが進展させた考えを無視して、美術館やアカデミズムは還元的な形式のなかにコンセプチュアル・アートを収め込んできたのではないかという気がしています。ここにも複数の歴史を見出すことが可能なのかもしれません。

 1968年に起きた転換とは何だったのか。それには、おそらく彼女のアルゼンチン体験が大きく介在しているとみなしてよさそうです。いずれにしても、1968年初頭には芸術の非物質化を抽象的でプロセスを重視したものとして提示していたリパードは、その可能性をもっと拡張していく方向に舵を切っていたといえそうです。こうした美術における行動や経験に注目する傾向が、どうやらイタリアと同じ時期に発生しているように思えますね。

金井:ひとまず前回のメールの続きを。アルテ・ポーヴェラは初期から記号やオブジェクトの非表現性を打ち出してきたわけですが、そのすぐ傍らに、行為や実践重視の試みがあったことは見逃せません。たとえば1966年、トリノのスペローネ・ギャラリーで開かれた三人展「アルテ・アビタービレ」。ミケランジェロ・ピストレット、ピエロ・ジラルディ、ジャンニ・ピアチェンティーノが、美的対象とはおよそみなし難い、内装や家具のようでそうではない作り物を持ち込んだ、いわば隙(間)だらけの展示で、来場者が自由に、棲みつくかのように(abitabile)ふるまえる場が生みだされました。参加・協働への関心は、翌年のピストレットの個展にも明らかです。彼は初日に自作一点をギャラリーに置き、あとは希望者の自由な参加・展示・行為に委ねたのでした。同じ発想は1968年のヴェネツィア・ビエンナーレの際、ピストレットが自身の展示スペースを来る者/物拒まずのアンデパンダン展状態にしてしまったことともつながりますね。つまり五月革命の渦中、彼はボイコットや占拠ではなく対話の場を開いたわけですが、そこには単純な造反有理のポーズではなく、年来の実践の持続があったわけです。

 さて、同じく1968年、アマルフィでアルテ・ポーヴェラ展に連動するかたちで、アツィオーニ・ポーヴェレ(貧しい諸行動)が開かれました。当時、現代美術を精力的に支援していた若きマルチェッロ・ルンマによって組織され、アルテ・ポーヴェラ同様、チェーラントのキュレーションで実現したイベントです。ピストレットと彼の率いる演劇集団ズーが大道芸的な行為を繰り広げ、民衆的な儀式を思わせる行列を仕立てたり、リチャード・ロングが通行人と握手をし続けたり、エミリオ・プリーニと一緒に展示会場でサッカーを始めたり、アンヌ・マリー・ソゾー・ボエッティたちが浜辺でコンサートを始めたり、あるいはパスカーリの作品をつかって子どもたちが遊んでいたり。このような行為への傾斜ないし芸術と生(活)の境界解除、共同性への関心-意志は、もちろん同時代の政治社会状況ともつながるものでしょう。組織者のルンマ自身、芸術家の行動の自由について、極めて自覚的だったようです。彼はヴェネツィア・ビエンナーレの会場占拠にも加わっています。イベントに合わせて開催された討論では、芸術生産の政治的価値をめぐって議論が交わされています。このときのアーティスト、批評家のつながりが、翌1969年の重要な二つの展覧会、すなわちアムステルダムの「Op Losse Schroeven」やベルンの「態度がフォルムになるとき」にも流れ込んでいきます。

 さて、少し整理しておきましょうか。住友さんからの問いにお答えするかたちで申し上げると、チェーラントによる「アルテ・ポーヴェラ」vs.「アルテ・リッカ」の対比には、合衆国の覇権主義への忌避感が相当作用しているわけですが、加えて、直接性への強い志向があったことは明らかです。再現表象の複雑さ/豊かさを排する意識ですね。アンチ・スペクタクル、反イメージ衝動と言っても良いかもしれません。当初はそれがトートロジカルな作品として現われ、追って有機物・無機物の直接呈示というかたちをとった。アーティストという操作主体と対象(素材)のあいだのヒエラルキーを自明視しないという意味で、今日的な存在論との近しさも感じられるところですね。住友さんが言われたように「動物や植物や鉱物が、自分以外の何ものにも所属せず、誰によっても名付けられない状態」が目指されているようです。そしてその傍らで、アツィオーニ・ポーヴェレのように、直接的な行為も実践され、経験が直に分かち合われていたということです。さて、このように見てくると、チェーラントの言説変容の背後には、直接性をめぐる一定の理路があったようにも見受けられますが、実際のところは定かではありません。むしろ良い波に乗ったという見方もできそうですし、それはそれでよいのでは、とも思います。

 廣瀬さんとの関係でいえば、アルテ・ポーヴェラ+アルティ・ポーヴェレが持ち得たレンジに、氏の作品の幅広さ、オブジェクトとしての「明澄さ」と実践志向、共同性はよく重なっていると思います。長く内側からイタリアを見てこられた廣瀬さんならではの、多様で魅力ある「貧povertà」との同期と言っても良いのではないでしょうか。

 ところで住友さんはルーシー・リパードに触れておられました。概念ないし作品という形式に還元することなく、アーティストの行為や経験自体を重視することで、“正典化”していくコンセプチュアル・アートの外部を語る彼女のスタンスは、イタリアの60、70年代を捉え直す、いや、解きほぐすうえでも非常に重要なものだと思います。そのリパードが「6年間:1966から1972年における芸術の非物質化」でアルテ・ポーヴェラ勢から誰を取り上げているかというと、やはりピストレット、そして重鎮マリオ・メルツ、それからアリギエロ・ボエッティです。

 リパードの本に掲載されているボエッティ作品は1968年の《双子》(ふたりの同じボエッティが手に手をとっているフォトモンタージュのダブル/セルフ・ポートレイト)ですが、ボエッティの活動がいっそう脱中心、脱領域的になるのは1971年のことです。ひとつには名前。彼は姓と名のあいだにe(「と」の意味)を入れてAlighiero e Boetti(アリギエロとボエッティ)という具合に署名しはじめ、“私”を分裂させます。そしてアフガニスタン。この年から1979年のソ連軍の侵攻まで、ボエッティはイタリアとアフガニスタンを行き来しながら、カブールでホテルを経営します。「ワン・ホテル」ですね。また彼の代表作である地図のタペストリーの制作(発注)もこの頃に始まり(ボエッティ自身は製作にはかかわりません。色味や細部の意匠も現場に委ねました)、侵攻後もペシャワールのキャンプに拠点を移し続けられました。

 じっさいのところ、ボエッティの“経営”や“発注”を他者との水平的な協働関係の構築をめざす実践とみなしてよいかといえば、いささか微妙というか、やはり難しい気がします。その“事業”を現代美術の地平から調和的に了解しすぎてはならないと思います。ただ、白人男性による一方的搾取かというと、やはりそうでもなく、近年の研究を見るかぎり異文化交流や授産の現場となっていたことに疑いはありません。もちろん、利他や公益がどうだという話でもないですね。脱中心的なモメントが、彼をひたすら外部へと押しだし、都度、水平的とも垂直的とも言いかねるつながりが生じていたというところでしょうか。

 ドクメンタ13でマリオ・ガルシア・トレスが「ワン・ホテル」を取り上げたのは、もう10年も前のことですね。私にとっては忘れ難い作品です。そのとき、主会場フレデリチアヌム美術館前庭は、反グローバリストの妙に整然としたテント村と化しており、まさに秩序と無秩序状態でした。ordine e disordine。ボエッティが非常に好んだ言葉です。

 ボエッティの実践を分析・評価することは、なかなか一筋縄ではいかないのですが、だからこそ、今日的な芸術実践について考えるヒントも多く含まれていると思います。アルテ・ポーヴェラ研究からは私はほぼ退いていますが、ボエッティについては別です。ひきつづき気にしていきたいところです。

後編へ続く>>


金井直(信州大学教授)
1968年福岡県生まれ。豊田市美術館学芸員(2000~07年)を経て、2007年より信州大学人文学部に勤務。主なキュレーションに「アルテ・ポーヴェラ」(豊田市美術館、2005)、Vanishing Points(ニューデリー国立近代美術館、2007)、「あいちトリエンナーレ2016」(共同キュレーション、愛知県美術館他、2016)、著書に『像をうつす 複製技術時代の彫刻と写真』(赤々舎、2022)、共著に『彫刻の解剖学』(ありな書房、2010)、共訳に『Art since 1900』(東京書籍、2019)などがある。

住友文彦(東京藝術大学教授)
1971年生まれ。ICC/NTTインターコミュニケーションセンター、東京都現代美術館学芸員などを経て、2013年から2021年までアーツ前橋において館長を務め、コミュニティと関わる各種プログラムを実施。「境界 高山明/小泉明郎」(銀座メゾンエルメスフォーラム、2015年)、「あいちトリエンナーレ2013」、「メディアシティソウル2010」(ソウル市美術館ほか)、「川俣正[通路]」(東京都現代美術館、2008)などを企画。