みかんコレクティヴ
未完のみかん―「みかんかく」を想像する ―
2023年10月6日
紀南アートウィーク 藪本 雄登
1 「みかんかく」とは?
「みかんかく」は、みかん(蜜柑、未完….)+かんかく(感覚、間隔….)をかけ合わせた造語です。今回は作品を鑑賞する「展覧会」としてではなく、「みかん」を媒介にしながら、嗅覚や味覚、触覚、や時間感覚等に訴えるワークショップなどを中心に「みかんかく」展を開催します。
このきっかけを与えてくれたのは、白浜のBar 九十九のマスターです。昨年、食のワークショップにおいて「五感を感じる・・・」という表記を見たマスターは「僕は『五感』という言葉が嫌いでね。『五感』が備わっていない人はどうなるの?アートを扱う者が、そんな残酷な言葉を使ってはいけないよ。」と言って頂いたのが、なかなか頭から離れませんでした。
2 「感覚/間隔」とは ―視覚>嗅覚、味覚、聴覚、触覚?―
『目の見えない人は世界をどう見ているのか(伊藤亜紗先生著)』によれば、人間が得る情報の9割は視覚情報に頼っているといわれており、芸術/アートはほとんど視覚表現から成り立っています。思想・哲学的にも「視覚」の優位性が強調されてきた歴史があります。
その意味で、今回の「みかんかく」展に登場頂くアーティストの廣瀬智央さんは「嗅覚」、トゥアン・マミさんは「味覚」、映画監督・岡野晃子さんは「触覚」といったように「視覚」以外の表現を重要視してきました。例えば、ミラノの廣瀬さんのご自宅に宿泊させて頂いたときには、その部屋には、本物のオレンジと彫刻のオレンジが置かれており、自身の「視覚」のみならず「触覚」や「嗅覚」を発揮し、そのモノに触れて持ってみて、匂いを嗅いでみないと本物/彫刻のオレンジとの区別ができないように仕掛けられていました。
また、そのオレンジと手が触れ合うような「濃密な重なり合い」の場においては、まさに「『間隔』ゼロ(もしくは、『間隔』マイナス)」の状態がひらかれるような気がします。そこにおいては、自分や他者の別け隔てが曖昧になり、深みに入っていくような感覚を得るのは、私だけでしょうか。その「間隔ゼロ」から深みに入っていく状態を、紀南を代表する博物学者・南方熊楠は「直入(じきにゅう)」と呼んだのではないでしょうか。
特に、熊楠は「触覚(tact)」を重要視していたと言われています。熊楠研究者・唐澤太輔先生の「“tact”に関する哲学的考察―南方熊楠の言説から―」によれば、触覚こそが根源的なものであり、まさに触覚のみで生きている究極の生物が「粘菌」でないかと述べています。本展を通じて、皆さんの「触覚」を粘菌のように稼働させてみましょう。
3 「食べること」と「寄生/共生」
「食べること」は、日々の楽しみでもありますが、実は生易しいことではありません。つまり、私達は「食」を巡って、寄生し合ったり、食い合ったりする緊張関係を無視してはいけないのです。今回、ベトナムからマミさんが紀南にやってきますが、彼のプラクティスは、ある種「食客/寄生」的ともいえます。『食客論(星野太先生著)』によれば、「食客」とは、いわゆる「居候」のことです。つまり、「食客」は「寄生虫」のように宿主を出し抜いて、食事をくすねとって、宿主と食事を食い合う存在であります。マミさんは、根を切り離され、移住し続けるベトナムの植物/移民に焦点をあて続けていますが、私達は「共生」の前に、既に傍らにいる彼らとともに「食事」を取り続けなければなりません。マミさんの今回のアート・レジデンスを通じて、一文字違いの「『共』生」と「『寄』生」をどのように捉え返すことができるのでしょうか。
4「蜜柑」と「未完」
最後に「蜜柑」については、もちろん、昨年の「みかんマンダラ」展の延長線にあります。ちょうど2023年6月に『未完の天才 南方熊楠(志村真幸先生著)』が発売されており、同書の「みかんと神仏習合」という章で、果樹栽培と神仏習合の関係性について述べられています(その内容については、是非同書を手に取って下さい。)。また志村先生は、熊楠の「未完」性を踏まえて、実は「完成させないこと」、「結論をださないこと」の重要性を問い直しています。この「未完」の思想は、近年の現代思想、哲学、人類学、芸術の世界においても重要な要素となりつつあります。例えば、「共同体」論でいえば、イタリアの哲学者ロベルト・エスポジトは、私達は純粋な贈与である「誕生」の段階から決して返済しようがない負債を負っており、この「未完の状態」こそが、人を結びつける源泉であるとまで言っています。その意味では、「未完の人・熊楠」に、やっと時代が追いつきつつあるのかもしれません。
さて、今年も「みかん」を媒介に、終わりなき「みかんかく」の旅に出掛けようではありませんか。
以 上