紀南アートウィーク2023「みかんかく」上映会振り返り  

『日本語には、接触をあらわす動詞がふたつある。「さわる」と「ふれる」だ。

「さわる」は一方的な接触である。壁にさわる。りんごにさわる。たいていは物に対する接触に使われ、そこにさわる側とさわられる側の感情的な交流はない。

(中略)一方、「ふれる」は双方向的である。通常は人間に対する接触に使われ、相手の心の開き具合を推し量りながら、ふれる側はふれ方を微調整していく。』

伊藤亜紗 美学者 (映画「手でふれてみる世界」パンフレットより)

自分は、清瀬市という、東京でありながら、東京の人でもよく場所を知られていない、貴重な昭和感の残る地域にて、主に視覚障害者や知的障害者の外出のサポートをフリーで行いつつ、その傍ら、地域活動として、個人的に映画の自主上映会を年に何回か催していた。

2011年8月に、映画『フラガール』を音声ガイド付きで実施して以降、都内で7~8本、その後2015年に和歌山県田辺市へ移り住んでからも、地域の廃校を利用するための有志グループ「ふたかわ超学校」に混ぜてもらい、元音楽室などを使用して上映会を開催。

合わせて50本くらいの映画(主にドキュメンタリー映画)の上映会を開いたりお手伝いしたりしてきた。

「映画が好きなんですね。年間何本くらいみるのですか?」と良く聞かれる。「いや、どうなんだろう…。」といつも居心地が悪くなる。

実際本当に「映画好き」な人に比べたら、自分など「映画好き」などとは恥ずかしくて言えない、くらいしか観ていない。おそらく「上映会を催すこと」と「映画好き&映画をたくさん観る」は、それほど直結していない。

映画が好きな人などそれこそいくらでもいるので、そう考えれば巷は上映会だらけになるはずだろう。だが実際そうではない。この2つには思うほど相関関係はない、といえる。

もっと言うと、「映画好き」だからといって「映画をたくさん観る」ということでもない。そもそも地方住みは、観たくとも近くでやっていない、という物理的な問題もある。

ところで上映会をやると、その会場には独特の磁場があらわれる。映画によっても、そこに集った人や人数によっても、それは毎回違っていて、映画を観終わるとそれがまた変化している。

それが面白い。

そして、普段の生活ではあえて積極的には話題にならないであろう、例えば戦争や政治、教育、環境、哲学、アート、人権、ジェンダー…などについて、映画を通して映画をきっかけにして話したり考えたりすることができる。

そのような様々なテーマの良質な作品が数多くあり、自分でも一番興味があるのがドキュメンタリー映画だ。   

(話すことも文章も苦手で、基本山で暮らしているような)自分はきっと、上映会を媒介にして社会に「ふれる」ことをしたいのだろうと思う。

ただ上映会だけをしたいのではなく、そこに双方向性を求めている。という気がする。

紀南アートウィークでは、2022年、映画『太陽の塔』上映に続き、2023年は2本の映画上映で参画させていただいた。

1本目は、岡野晃子 監督『手でふれてみる世界』(2022/日本)。

紀南アートウィークのイタリア在住アーティスト・廣瀬智央さんを通して知ることとなったこの作品は、イタリア・マルケ州にあるオメロ触覚美術館の館主である、アルド・グラッシーニとダニエラ・ボッテゴニという全盲のご夫妻のことを、岡野監督がとても丁寧に撮っている。

彼らはかつて世界を旅する中で、どこも美術館では「ふれる」、「さわる」ことを禁止され十分に楽しめなかった、ということを機会に、誰もが作品にふれられる美術館を自分たちでつくってしまった。

主に彫刻作品だが、来場者はそれぞれ思い思いに作品たちにふれて学び楽しんでいる。

「ふれる」ことにより、見るだけではわからない伝わらない、何か大事なことをみな感じとっている、そんな気がするのと同時に、これまでアート作品がいかに「見る・見えることが前提」でつくられているのか、に気づかされる。

岡野監督の佇まいがそうさせているのか、イタリア人気質なのかわからないが、映し出されているひとはみな、障害があろうがいまこの瞬間を大事に思い、人生を楽しんでいるようにみえる。

2本目は『手でふれてみる世界』と合わせてぜひ上映したいと思った、三好大輔 川内有緒 監督『目の見えない白鳥さん、アートを見にいく』(2022/日本)。

内容は、タイトルそのままの映画であるが、目の見えない白鳥さんのアート鑑賞方法が実に面白い。美術館に行く際、必ず誰かと一緒に行くか、美術館スタッフのひとに付き添ってもらい、その場で作品を解説してもらいながら鑑賞する。

色や形、その解説するひとからはどう見えて、どう感じるか、白鳥さんはそのことばをもとに、時に質問したりしながら、作品のイメージを頭の中で構築する。

何が描かれているかはっきりわかるものよりも、抽象度が高いもののほうが楽しいという。これを複数人でやれば、それぞれ言うことが(感じ方が)違ってくるので、イメージが立体的になったり、逆にまったくわからなくなったり…。

触覚を使うことなく、会話を通して耳で作品にふれている。作品のみならずその場にいる人みんなにふれられる、という素敵な鑑賞方法。そんな鑑賞法を編み出した白鳥さんを追ったドキュメンタリー。

2作品とも、映像だけではなく、日本語字幕と音声ガイドをつけた、ユニバーサル版での上映。

音声ガイドは、目のみえない鑑賞者のために、映像中、誰がどういう場所・場面で何をしているか等の解説を音声で届けるもので、それが本編中の会話に被らないよう、一場面ごとに的確なことばを探りつつ、実際目のみえない人の意見も聞きながらつくられる。

会話間のほんの数秒に、この場面で伝えるべきことはなにか、時には監督も交えながら全編仕上げていく。実際、AIでは不可能な職人的技術、もっと知られてほしい。

『手でふれてみる世界』は、上映だけでなく、岡野監督と廣瀬智央氏のトークイベントやワークショップ「手でふれてみる美術鑑賞会」も別日程で催された。

映画上映だけのときは、映画が終わるとともに磁場がほどけていく感じだが、その後にトークやワークショップがあるとその磁場がまた違う形に変化する。

上映直後のトークでそれは醸成され、ワークショップで弾けるというか、なんともことばでは言い表し難い、でもそこにいると不思議と高揚するような、そんな心地よい場がうまれていた。

西洋文化的に、視覚と聴覚が上位で、その下に嗅覚・味覚・触覚、のようなヒエラルキーがあるらしく、音楽含めた芸術作品を考えると、確かに目や耳で鑑賞するものに偏っている。

そこにあえて、かわからないが、嗅覚・味覚・触覚をメインに、さらに紀南特産のみかんを重ね、「みかんかく」とした紀南アートウィークは、大変新しく意義深い試みだと思う。

アートイベントとして、いまは紀南地域に「ふれて」いる段階なのかもしれない。今後さらに浸透し、根付いていってほしい。

写真:下田 学(coamu creative)