コラム
草を刈る、波を待つ ― コモンズ農園の現在地
紀南アートウィーク 藪本 雄登
苗木が見えない
夏を越えたコモンズ農園に立つと、まず途方に暮れます。雑草が一面に伸び、どこに苗木があるのか分からない。草刈り機を振っているうちに、守るはずの苗木まで刈ってしまったこともあります。奥のほうはもはやジャングルで、分け入って木を倒すところから始めなければならない場所もあります。柑橘を育てることが目的なのか、草を刈るのが目的なのか、分からなくなることもあります(笑)。
廣瀬智央さんのアートプロジェクト「コモンズ農園」は、2022年10月に始まりました。約30組の里親の皆さんにみかんの苗木を預かっていただきながら園地を探し、2025年3月、田辺市上秋津でようやく園地を見つけることができました。目指しているのは、誰もが自由に出入りできる「公園のような農園」です。けれども、その理想の手前にあるのは、ひたすら草との付き合いです。いやはや現実は苦しいです。
サービスになった「みんなのもの」
コモンズをつくること、維持することは、なぜこんなに難しいのか。これは紀南のような地方だけの問題ではないと、最近つくづく感じます。
私の家族が暮らす大阪でも、PTAは存続の危機にあり、廃止されるところも出てきました。学校の部活動も、業者が費用を受け取って受託するかたちに変わりつつあります。かつて「みんなでやること」だったものが、提供する側と受け取る側に分かれ、金銭の授受によって成り立つ「サービス」になっている。
それが悪いと言いたいのではありません。誰もが自分の生活で精一杯で、現金を稼がなければ暮らしていけない。その現実の中で、無償の持ち寄りを前提とした仕組みが立ち行かなくなるのは、ある意味で当然です。都会であれ田舎であれ、コモンズの維持はいま、とても難しい課題、いや、もはや不可能になりつつあるのかもしれません。
他方で、こんな場にも出会いました。会費もなく、参加登録もなく、バレーボール好きのご夫妻が休日に時間だけ決めて、ゆるく続けている集まりです。人数はごくわずか。それでも、そこには確かに「コモンズ」と呼びたくなる空気がありました。力むと続かない。誰かが好きでやっていて、来たい人が来る。それくらいの温度が、実はいちばん強いのかもしれません。

廣瀬さんと 息子も一緒に 写真:筆者
労働にしてしまうと
農園に話を戻します。地方では、とにかく人がいなくなりつつあります。それなら対価を払って草を刈ってもらえばよい、という考えも当然浮かびます。けれども、これはアートプロジェクトです。そこに「労働」が生まれてしまうと、途端に苦しくなる。お金を払うことでしか維持されない農園は、管理された園地ではあっても、コモンズではありません。何をやっているのか、自分たちでも分からなくなってしまいます。
かといって、自発性だけを頼りに人に関わってもらうのは、厳しい状況でもあります。様々な仕掛けを考えれば考えるほど、今度はビジネスに似てくる。参加の動機を設計し、見返りを用意し、義務を割り振る。それはもう、私たちが距離を置こうとしてきたものと同じかたちをしています。
だから、色々悩みましたが、私に、いまできることは、自分ができる範囲で草を刈ること。結局そこに戻ってきました。
草刈りは忙しい
ところが、やってみると草刈りは面白いのです。ずっとやっていられる。
草刈りは単純作業に見えて、実は判断の連続です。この木は切っていいのか。これは雑草なのか、誰かが植えたものなのか。石に当てると危ない。刃をどこまで入れるか。情報量がやたらと多く、他のことを考えている余裕がありません。一心不乱に体を動かしているうちに、気づけば時間が経っている。「無心」とは、何も考えないことではなく、目の前のことで頭と体がいっぱいになることなのだと知りました。
この感覚には覚えがありました。いま私が夢中になっているサーフィンです。海には携帯電話を持ち込めません。波、風、天候、そして自分のポジション。すべてを踏まえて、次の一本に乗るかどうかを一瞬で決めなければならない。農業と一緒で、まったく思い通りにならない。とても大変なのですが、逆にそれが楽しい。
草むらの中と波の上で、私は同じ種類の忙しさを味わっています。普段、パソコンや携帯などの画面越しの情報に追われているのとはまったく違う、体ごと巻き込まれる忙しさです。
ビーチクリーンと農道
もうひとつ、似ているところがあります。
海は誰のものでもないはずですが、実際のローカル・サーフポイントは、驚くほど閉じた世界です。紀南では、良い波が立つのは台風が来たときなどに限られ、誰もが好きなだけ乗れるわけではありません。ローカルのサーファーたちは、ビーチクリーンなどに参加しないよそ者を簡単には受け入れてくれません。ルールを無視したり、配慮がない人は、やがて海に入れなくなる。窮屈にも見えますが、あるとき、これこそ「コモンズ」なのだと思い至りました。
農道も同じです。農地を借りて中に入ることができても、そこへ続く農道は「みんなのもの」です。草を刈り、きれいに保つ人だけが、使うことを認められる。それをないがしろにする人は、いずれ使わせてもらえなくなる。
「コモンズ」とは、誰でも自由に使える開かれた場所のことだと、私たちはつい考えがちです。けれども、紀南の海や農道が教えてくれるのは別の姿です。コモンズは、手入れをする人たちの関係の中にしか存在しない。そこに入る資格は、お金ではなく、掃除や草刈りという行為とともにあります。サービスが「払えば受け取れる」ものだとすれば、コモンズは「手を動かした分だけ、そこに居てよくなる」ものなのかもしれません。

草刈りの後、コーヒーを飲む 写真:山本玲子
何が育つか、待ってみる
そう考えると、苗木が見えなくなるほどの雑草も、少し違って見えてきます。草を刈ることは、農園を維持するための「コスト」ではなく、それ自体がコモンズへの参加なのだと。
だから、当面は力まないことにしました。なんとなく、ゆるく声をかける。来られる人と草を刈り、苗木を見て、手入れが必要なら手当する。終わったら農地でご飯を食べたり、コーヒーを飲んだりするぐらい。対価も義務も発生させず、何が育つかを待ってみる。もちろん荒れてしまうリスクはあります。それでも仕組みで埋めるより、余白のまま置いておくほうが、この農園にはふさわしい気がしています。
波は呼んでも来ません。来た波に、そのときの自分で乗るしかない。農園も同じで、草は待ってくれませんが、人が集まることもまた、急かせるものではないのでしょう。
これからも、できる範囲で草を刈っていきます。よければ、ゆるく、ご一緒に。

なんだかんだで進む園地整備 写真:山本玲子


