みかんコレクティヴ
異次元の果実の輝き
*単線的/単層的な時空間を超えるマンダラの思想をめぐって*
唐澤太輔(秋田公立美術大学准教授)
1、非時香菓
我々日本人のよく知るみかんの祖先は、橘(Citrus tachibana、ヤマトタチバナ、ニッポンタチバナ)だと言われる。そして『日本書紀』で、その実は「非時香菓(ときじくのかくのみ)」と記されている。
(垂仁天皇)九十年1)の春二月の庚子の朔に、天皇、田道間守に命せて常世国に遣し、非時香菓を求めしたまふ。〈香菓、
此をば箇倶能未と云ふ。〉今し橘と謂ふは是なり。(『日本書紀』巻六垂仁天皇九十年(辛酉六一)二月庚子朔条)
上記に出てくる田道間守(たじまもり)は、記紀における伝説上の人物であり、みかんや柑橘の祖神ともされている。彼は、垂仁天皇により常世国でこの「非時香菓」を探すことを命じられたという。これが、我々の知る橘の実であるとされている。また古来、この橘の実は、不老不死の果実と信じられてきた。
『日本書紀』のみならず『古事記』でも、その実は常世国にあったと言われている。筆者は、この点が極めて重要だと考える。常世国とは、簡単に言えば、海の彼方、死者の国、他界である2)。そこはいわば異世界である。つまり、我々が通常認識している現実世界(三次元空間)をはるかに超越した場所なのだ。そして、そのような場所に「非時香菓」は成っていたのである。
通常、「非時香菓」は、時を選ばず香る果実と解されることが多い。しかしながら、それが成っていた場所(常世国)を鑑みるならば、以下のような解釈も成り立つのではないだろうか。
――常世国に流れる時間は、この世の時間ではない。この世の時間観や「論理」が通用してはならない。まさに「時」に「非(あら)」ず、なのだ。また、その「香」りは辺りに満ち満ちて、黄金色に輝く「菓(果に同じ)」は霊果にふさわしく、この世のものとは思えないほど神々しい。そのような意味においても、まさに、食せば不老不死になれると十分に信ずるに足るものであった。当然、不老不死になるためには、この世の時空間を超越しなければならない。それに適した実を、田道間守が常世国という異次元空間で見つけたことは非常に示唆的である。ここで筆者は、さらに想像力を飛躍させる。田道間守は、呪術的素養を持った人物であったのではないだろうか。彼の名前の「道間」という漢字がそれを示しているかのようにさえ思われる。つまり彼は、常世国と現実世界という両極の「間」あるいは「道」を行き来できたのだ。
tanabe en +で展示されたVR蕎麦屋タナベによる《みかん神話VR》(2022)(写真1)は、この異次元性を視覚化した作品だったと言えるだろう。鑑賞者はVRゴーグルを装着し、大宇宙に浮かぶみかんの内部に入り込む。「私」とみかんの主体性が入り混じり、鑑賞者は、その浮遊感の中で時空間がねじ曲がる経験をする。
ちなみに、tanabe en +は、今回の紀南アートウィークのインフォメーションセンターでもあった。そこは「みかんマンダラ」という非日常世界への出入口としての機能を果たしていた。来場者は、ここで各会場の地図、すなわち「非時香菓」の在処を示す案内図を渡される。
橘は、通常の時空間を解体する。古代の人たちが直観したその重要な作用は、みかんにおいても消えてなくなることはない。紀南アートウィーク2022実行委員長の藪本雄登は、おそらくそのことを誰よりも敏感に感じ取っていたはずである。この異次元の果実の末裔たちが豊富に成る紀南という場所は、確実に「あちら」へつながっている。そして藪本は、綿密なフィルドワークと文献調査から、この霊果・呪果の意味を深く探ろうとする。
藪本の見立てでは、橘は「秩序」と「混沌」を切り離し(断ち)、そして、あの世(常世)と高天原の間の地上(この世)に「立つ」ものである3)[藪本2022:紀南アートウィークwebサイト参照]。しかし、事態はもっと複雑であろう。なぜなら、橘は、そもそも常世国で見出されたものだからである。言うなれば、あの世の果実なのだ。ここで重要なことは、その常世国という場所は、現実世界の「論理」を超えた超絶的な力を含有しているということである。人知を絶した力場に生えるその木は、強大無比な神聖性を帯びる。その木は、エデンの園の生命の木と同じく、本来的に、人間は触れることさえ許されないのだ。橘の若い幹の鋭い棘は、そのことを象徴的に示しているかのようである。
2、実、土、根、枝
ゆい倉庫に展示された廣瀬智央によるインスタレーション作品《官能の庭》(2022)で、特に筆者の目を引いたのが巨大な木箱から生えるみかんの若木(写真2)である。みかんの持つその「論理」を超えた神聖性あるいは原初性を、白い長方形の箱が増幅させていた。鑑賞者は、白い箱の上部から覗くみかんの幼木を仰ぎ見るのみである。同時に、白と緑のコントラストから放たれる独特のオーラにうたれて、これが霊果であることをまざまざと感じとるのである。SOUZOUに展示された廣瀬によるもう一つの作品《フルーツの塔》(2022)(写真3)は、神棚のようであった。鑑賞者は、そこに植えられたみかんの木から自由に実を取って食べても良いと指示される。しかし、そこに不思議な葛藤が生まれる。つまり、この「塔」と対峙した時、鑑賞者は、神に捧げられた供物を触れるような感覚もしくは禁断の木の実を手にするような感覚に陥るのだ。言い換えれば、鑑賞者は、みかんの持つ神聖性あるいは原初性を皮膚感覚で感じるのである。そして、鑑賞者は、その実を手に取り、思わず香りを嗅ぐ。その芳醇な香りは脳髄まで届く。
香るのは、実だけではない。みかんの木が生えている土壌も香るのである。愛和荘で展開された、バシライによる《basilli×Caravansarai〜薫る土壌〜》(2022)(写真4)は、まさに生きている土を嗅覚で感じる作品となっていた。その土は、ワイングラスに入れられていた。筆者にとって、それは、今まで嗅いだことがない匂いであるにも関わらず、どこか懐かしさを感じるものであった。おそらく、この懐かしさは、人類のルーツに関係するものであろう。その誕生以来、人類は土を踏みしめて生きてきた。それは今も基本的に変わらない。その意味で、土は我々にとって最も近しい「存在」とも言えるだろう。また『旧約聖書』では、神は土くれから人類の祖アダムを作ったとされる。そして、私たちの排泄物も肉も骨も土に還る。つまり、この循環の重要な基点となるものこそ土なのである。
みかんが、人類と決定的に異なるのは、その身体としての根を土中に常に潜らせている点かもしれない。人類が生きていくためには土の上に立たねばならない。しかし、みかんは土の中にも入らなければならない。その土中の蠢めきは、我々の想像力を大いに掻き立てる。SOUZOUに展示されたビー・タケム・パッタノパス(Be Takerng Pattanopas)の《うちとそと#3》(2020)(写真5)は、透明な根のようであり、脳内ニューロンのようでもあった。普通は、根は土中に、ニューロンは脳内に張り巡らされ、その複雑怪奇なネットワークが可視化されることはない。ところが、何かの拍子で、それらが突如として外部化されることがある。その時、我々は「驚異」を覚える。それまで隠されていたものが、何の媒介もなしに一気に目の前に現れた時、我々はそれをうまく定義化できずに戸惑うのだ。例えば、粘菌の変形体も同様である4)。普段の生活では気づかない(我々の環世界にはないとさえ言える)その密接錯雑する「それ」をふとした瞬間目の当たりにする時、我々は、「これは、宇宙人の襲来ではないか」5)[シャープ&グラハム2017:30参照]などという妄想さえする。ちなみに、最近の研究では、この粘菌のネットワークと大宇宙は、その形状においても酷似していることがわかっている6)。つまり、この内部の複雑なネットワークは、外部の大宇宙と現実的に共振しているのである。
内部は外部へと通じ、外部は内部へと通じている。この構造を「音」を用いて表現しようとしたのが、サウンドアートユニットあわ屋である。SOUZOU内の蔵で展示された、あわ屋によるインスタレーション作品《みかんと人のサウンドトーラス》(2022)(写真6)では、環境音(みかんがその成長過程で「聴いて」いたであろう音:風や水、芝刈り機の音など)が、みかんの枝木の内部に流れされていた。鑑賞者は、この枝木に耳をつけることで、わずかな振動と共に骨伝導のようにその音を聞くことができる。勿論、みかんの枝木には、人間の耳のような器官はないが、それでも常に環境音を「聴いて」いたはずである。いや、木の内部に響いていたはずである。本作は、そのような仮定のもと制作された。もともと外部で鳴っていた音が枝木の内部で聞こえる体験は、我々の外部と内部の概念を大いに撹乱する。
3、マンダラ
みかんは、原初的に、この世の「論理」を超えている。その神聖性は、我々の視覚のみならず、嗅覚や聴覚をも刺激する。各会場の展示は、鑑賞者の知覚情報を増幅する装置となっていた。そして、鑑賞者は、その渦に巻き込まれ、時空間のねじれを体験する。そのねじれから溢れ出る「果汁」を我々が深く味わうのは、我々の霊性の座においてである。あるいは、我々が霊性の世界に内在するときである。鈴木大拙(1970〜1966年)は、霊性について、以下のように述べている。
この霊性の世界には過去現在未来といふ様な時間区分は存在しない。それらはすべてみな生命がその真実の意味に於て震動
する現在の一瞬時に摂められる。…(中略)…過去と未来とは共にこの現在の光明の一瞬に凝縮する。[鈴木1955:70]
この、過去/現在/未来という単純な時間区分を超えた、あるいはすべてが凝縮された「現在の一瞬時」を、どこでどのように見出すか。それは、我々人間の理性や五感による空間観や時間観では難しい。むしろ、それらを徹底的に解除した先に見えてくるものである。
紀南アートウィークとふたかわ超学校は、この世界観あるいは宇宙観を、岡本太郎(1911〜1996年)に見出し、『太陽の塔』(監督:関根光才2018年)の上映会とトークイベントをtanabe en +で開催した。古来、オレンジあるいはみかんと太陽との視覚的親和性はしばしば言及されてきたが、両者を、さらにメタレベルで引き合わせようとすることが、上映会とその後のトークイベントのテーマであったと思われる。「マンダラ」の思想を媒介として。
「太陽の塔」の制作において、太郎は「マンダラ」の思想から大きな影響を受けたということはよく知られている。それは映画の中でも示されている。太郎は「マンダラ」を「空間を否定し、歴史を否定し去る」[岡本2015:236]ものだと捉えていた。また、現代の我々のあり方を「空間に依拠し、時間に甘えている」[岡本2015:236]と喝破している。太郎には、現代社会に生きる我々による、サイエンスに対するオプティミズムと歴史主義的な価値基準を解体しようとする強い意志があった。この意志は「太陽の塔」にも反映されている。
太郎の考える「マンダラ」は、人間の認識の根本をなす時空間という箍を外す装置であった。またそれは、三次元的に捉えられる生命のあり方の奥にある「不思議」をリアルに感得するモデルであり理論でもあった。それがまさに示現されたものが「太陽の塔」なのである。そこには、全てを包み込む「現在の一瞬時」としての「霊性の世界」がある。太郎が考えていたように縄文の人々は、この時空間を生きていたに違いない。一方で現代の我々は、この豊穣な時空間を忘れてしまってはいないだろうか。この豊穣な時空間を最もよく表すような「地底の太陽」が、万博終了後、行方不明になってしまったというのは、いかにも象徴的である7)。
「みかんマンダラ」は、単線的・単層的な時空間を否定する「地底の太陽」を再び輝かす試みだったのではないだろうか。あるいは、こうも言えるだろう。「非時香菓」としてみかんを「マンダラ」の思想によって捉え返し輝かす実践であった、と。勿論、それは単なる「明るさ」ではない。藪本が、中上健次(1946〜1992年)の言葉を引いて指摘するように[藪本2022:紀南アートウィークwebサイト参照]、貨幣の増殖ばかりを目指す先にある「明るさ」ではなく、常世国あるいは根の国の王たるスサノオ的「明るさ」である。その根底的明るさは、紛れもなく「地底の太陽」の放つ輝きなのである。
1) 古代天皇の時代を換算するのはなかなか難しいことではあるが、垂仁天皇90年を機械的に判断するとそれは紀元61年ということになる。実に2,000年近く前のことになる(勿論、それよりもっと前に橘は既に自生していたであろう)。
2) 常世国が、具体的に対岸諸国(中国大陸、朝鮮半島)を示していたとしても、その根本的意義つまりそこに含意された異次元空間性の重要さは変わらない。そこは、現在の我々が考える以上に未知の世界かつ不気味な場所であった。
3) 藪本は、橘の「たつ」には「真っ直ぐに立っている」「自然界の作用が目立って現れる」という意味に加えて「繋がっているものを切り離す」という「断つ」の二重の意味が含まれているのではないかという予測を立てている。その上で、橘が高天原と黄泉国の間に存在する地上に立ち、「混沌-負」を切り離すという象徴性を持った植物だと述べる。[藪本2022:紀南アートウィークwebサイト参照]。
4) 紀南アートウィーク2022「みかんマンダラ」公式パンフレットには「コロナ禍で制作された本作は、細胞や粘菌のような集合体のようであり、また無数の星々で構成される宇宙のようにも見えます」[紀南アートウィーク2022:4]とある。パッタノパスが粘菌や南方熊楠(1867〜1941年、粘菌研究者、博物学者)を知っているのかはわからない。しかし、その作品の形状は、輝きながら蠢く粘菌の変形体とそっくりである。
5) 1973年5月、アメリカのテキサス州ダラスのとある民家の庭先で、巨大な粘菌の一種ススホコリ(Fuligo septica)が発見され、これが「宇宙人の襲撃ではないか」と噂が広まり、全米が集団パニックに陥ったという事件があった。[シャープ&グラハム2017:30参照]。
6) 例えばカリフォルニア大学サンタクルーズ校のジョセフ・N・バーシェット(Joseph Burchett)らは、粘菌が捕食行動の際に見せるネットワーク構造に着目し、その動態を応用して、三次元的な宇宙地図を制作することを試みている[Burchett 2020参照]。
7) 「太陽の塔」には、未来を表す「黄金の顔」、現在を表す「太陽の顔」、過去を表す「黒い太陽」が一つの塔に凝縮されている。また、塔内部の地下には「地底の太陽」という第4の顔があったが、万博閉幕後、行方不明になった。現在展示されているものは2018年に復元されたものである。
〈参照・引用文献〉
岡本太郎『神秘日本』角川ソフィア文庫2015年
ジャスパー・シャープ/ティム・グラハム(Jasper Sharp and Tim Grabham), THE CREEPING GARDEN, 2015/川上新一監修、江原健訳『粘菌―知性のはじまりとそのサイエンス―』誠文堂新光社2017年。
Joseph N. Burchett, Oskar Elek, Nicolas Tejos, J. Xavier Prochaska1, Todd M. Tripp, Rongmon Bordoloi, and Angus G. Forbes. Revealing the Dark Threads of the Cosmic Web. The Astrophysical Journal Letters, 891, 2020.
鈴木大拙『華厳の研究』法藏館1955年
藪本雄登「みかん神話―紀伊半島と橘の関係を志向する―」紀南アートウィーク2022年webサイト、紀南アートウィーク2022「みかんマンダラ」実行委員会 https://kinan-art.jp/info/6962/ (2022年11月閲覧)
唐澤 太輔
1978年、兵庫県神戸市生まれ。2002年3月、慶応義塾大学文学部卒業。2012年7月、早稲田大学大学院社会科学研究科 博士後期課程修了(博士〔学術〕)。第1回南方熊楠研究奨励事業助成研究者。日本学術振興会特別研究員(DC-2〔哲学・倫理学〕)、早稲田大学社会科学総合学術院 助手、助教などを経て、現在、秋田公立美術大学美術学部アーツ&ルーツ専攻ならびに大学院複合芸術研究科准教授。
専門は、哲学、文化人類学。特に、人類が築き上げてきた民俗・宗教・文化の根源的な「在り方」の探求を、知の巨人・南方熊楠(1867~1941年)の思想を通じて行っている。近年は、熊楠とアート的思考の比較考察、及び華厳思想の現代的可能性についても研究を進めている。2019年、第13回湯浅泰雄著作賞受賞。