そして、またいごく―紀南アートウィーク2024を終えて―(後半)
紀南アートウィーク実行委員会 藪本 雄登
「そして、またいごく―紀南アートウィーク2024を終えて―(前半)」に続いて、後半の記事を公開しました。
4.2 留まるという抗い
カンボジア出身のティス・カニータ(Tith Kanitha, 1987−)は、顕彰館から徒歩5分のSOUZOUにおいて《無題》(Untiled, 2019)を展示した。カニータは、カンボジアでは日常的に利用される一般産業用のスチールワイヤー(鋼線)を用いて、直観的な手の動きから作品のかたちを生み出している。2023年11月6日に筆者が、プノンペンのカニータの自宅に訪問した際に、カニータは、第一子の出産後にワイヤーを使った表現を開始したという。これは、前述の「ぺたぺた・もにょもにょ」の実践と重なる部分がある。
この直観的な遊戯とそれを通じた制作は、カンボジアにおける美、生産的な労働、性的役割、政治的問題に対する抵抗戦略として、アーティストとして培ってきた術なのである。彼女のワイヤーを通じた芸術実践は、彼女の言葉を借りれば、異なる呼吸方法のようなものであるという。カニータは、つくりたい時宜に応じて「何か」を吐き出しながら、制作しているという旨を述べており、特に「吐き出す」ことが重要だという。この「吐く」という行為は、内臓感覚あるいは子宮感覚と深く繋がっているように思える。能楽師の安田登(1956−)は、深い溜め息は、「息の霊(いのち)」に繋がる強く蠢く生命活動の象徴と述べており[安田2013:151参照]、まさにカニータは触覚を稼働させながら、呼吸というリズムを生成する行為を通じて、制作物にいのちを与えているのである。
図5 カニータの自宅でワイヤーを変形させる様子(左)、SOUZOUでの《Untiled》の展示風景(右)
写真:筆者撮影
そして、粘菌が触覚(タクト、tact)を発動しながら、捕食を行い、その痕跡を残す行為、そして、原形質流動によってリズムを刻む粘菌と似ている。またカニータは、産業用のワイヤーを吐息のような目に見えない素材として捉えている。ワイヤーは、呼吸のように必要不可欠にもかかわらず、構造物を接合させているという重要な価値自体が見過ごされていることが多い。カニータは、ワイヤーを手作業でお互いに巻き付け、長い螺旋状のモジュールを集積させていく。柔軟なバネのような長さに変容させ、伸ばしたり、圧縮したり、接合させる。カニータは、自身の作品制作のプロセスを「ワイヤーを使ったドローイング」と呼ぶ。カニータ自身が媒介となって、一見硬直化している産業用のワイヤーを軽やかに統治から解放し、アクリルの絵画のような柔らかいイメージに変換させてしまう術を発動しているのである。これは、まさに硬直化した孤独な木を、水の力によって柔らかくしてしまうことと同じである。
このようにSOUZOUでは、この凝り固まったワイヤーを変化させてしまうような「留まるという抗い」というテーマで展示を行った。つまり、ここでは人間から見た世界の固定化の不可能性を示そうとした。アーティストの杵村直子と杵村史朗が、古民家の旧岩橋邸を徐々に修繕、整備しながら運営している会場では、カニータをはじめ、現在急速な発展を遂げるメコン流域諸国のアーティストたちの作品を主に展示した。ここで紹介するアーティストたちの作品は、一般的に難解と思われる可能性が高い。その理由は、ここで紹介する作品は、基本的に言語情報は一切なく、論理的な、つまりロゴス的思考では捉えどころがない作品だからである。そのような作品に対峙した鑑賞者は、ロゴス的な統治をすり抜けていくレンマ的知性(直観的知性)を稼働させる必要がある。言葉で説明をすることはなかなか困難だが、次の通り、その内容を整理する。
タイキ・サクピシット(Taiki Sakpisit, 1975−)は、幻想的でありながらも不穏なイメージと音声が漂う映像表現を展開する。《Trouble in Paradise》(2017、図6)は、2016 年後半から現在に至るタイの政治的混乱や人間/非人間や精神/宇宙を巡る数々のイメージを展開するが、説明は一切省かれており、その全容や意味を掴み取ることはほぼ不可能である。筆者自身もこれまでタイキと5回以上に渡って、面談したり、食事をしたりしているが、作品の内容は掴みきれていない。特にタイキは、文学作品や音楽作品から着想することが多く、鑑賞者に容易に参照点を与えてくれない。
この作品は「①Summer/夏」、「②A Ball/舞踏会」、「③Paradise/楽園」、「④Earth/地球」、「⑤Earth Again/再び地球へ」の 5 部構成で構成されており、①誰も存在しない人工空間→②宇宙のような空間→③縄で繋がれた牛と自然→④人間、金、炎、そして、人間、木、水で構成される多元的イメージ→⑤木が映し出され、複数の存在者の記憶、異なる時間感覚におけるデジャヴ、死後の世界における幻覚的な心理状態を追体験しているように錯覚する。タイキは、多重露光の技術を活用して、牛や人間の顔を露呈させる。そこで登場する牛の顔は、縄で繋がれており、不自由なイメージを受けるが、この状態が一種の楽園なのだろうか。
他方、同作で登場する金と一緒に登場する人間の顔は、一切微動だにしない。多重露光の効果によって、顔の後に木のイメージが徐々に現れてくる。この木は、人間の脳のニューロンをイメージさせるように重なり合うが、その枝などは枯れてしまっており、ロゴス的な中枢機能を持つ脳の限界を示しているようにも感じられる。そして、その木は、人間の顔と同じく全く微動だにしない孤独な状態で、まさにいま死にゆくことを予感させる。タイキは、自己同一性に固執し、ロゴス的知性に頼りすぎている人間の限界に対して、問いを投げかけているのだろうか。
それと対照的に、木に浸透している水の流れは、粘菌の変形体のように常に揺れ動いている。この水が、いずれ人間の顔、金や木々のインターフェイスを取り込み、侵食によって相互浸透し合いながら、硬直的な状態を柔和化し、新しい顔や生命が生成される可能性を示している。人間や世界は、留まろうと抗おうとすればするほど硬直化していく。しかしながら、いかなる存在は、いくら抗おうとも、他者による働きかけによって、実際に永遠にどこか留まることはできない。現代の人間が存在し、統治しようとしている世界は、地球にとっては、一時的な硬直状態(トラブルの状態)のようなもので、人間がどうなろうとも、この流動的な楽園は生成され続けるということを示唆しているようにも思える。その意味で、紀南/熊野についてはどうであろうか。前述のヘアートのエッセイ「熊野に孤独な木々はない」を踏まえると、タイキは、ヘアート同様に、人間は固定化された孤独な木のようなものになっているのか、と問うているようである。
図6 SOUZOUでの《Trouble in Paradise》の展示風景 写真:筆者撮影
筆者たちは、展覧会を開催するにあたって、タイキの作品をはじめ映像作品を多用することが多く、実際に筆者が運営するアウラ現代藝術振興財団のコレクションも8割以上が映像作品となっている。その大きな理由は、絵画や彫刻等の場合、美術輸送と保険コストが膨大に膨れ上がることが多いが、これに対して、映像の場合、作品輸送コストがほとんど生じないという利点があることである。輸送費用の点もそうだが、筆者は、この移動の容易性によって、新しい場所との関係性によって、新たな文脈が与えられやすいところが、映像作品の魅力の一つだと考えている。
つまり、映像メディアは、粘菌と同様に、データ移動によって、比較的、容易に国家や規制から避難しながら、様々な民族や社会集団の記憶をすくい上げ、繰り返し、脱領土化しながら物語を変容させていくことができる。人類学者の石倉敏明(1974−)は、アピチャッポン・ウィーラセタクン(Apichatpong Weerasethakul, 1970−)の表現を踏まえ「映像のゾミア」という可能性を提示している。
アピチャッポンの映画は、目に見えないもの、あるいは知覚不能な現実の次元とつながっている土地の精霊という存在が、口承の物語という伝統的な表現形式と、映画という新たな表現形式にまたがって存在する地点に生まれ、他者を巻き込んだ集合的な実験として深められている。そこでは彼の個人的な記憶と地方の歴史がある要素が受け継がれ、神話の異伝のように変形されることもある。こうした深々とした想像力のルーツは、彼の映画における語り手が決して透明無垢な生活者の視点を代表するのではなく、虚実皮膜の間に立ち続けながら新たな物語の生成に参加し、魅力的なパフォーマンスを繰り広げる「映像のゾミア」として存在していることの、深々とした根拠を形成している。[石倉2022:117]
ゾミア[1]の民は、統治されないために、支配者や官僚に、その存在や動向を成文化させないための術を発達させてきた。これはジェームズ・C・スコット(James C. Scott, 1936−2024)が「口承文化は、聴衆に対して特定の時間と場所で演じられる一回かぎりのパフォーマンスのなかにのみ存在し、それを通じて維持されていく」[スコット2013:232]と述べる通り、口承の「語り」を場所や状況によって変容的に継承していくことを意味する。つまり、石倉がいわんとしていることは、従来的なゾミアの口伝の系譜を受け継ぎながら、口承文化が、アピチャッポン等の現代アーティストたちの映画やショート・フィルムの制作、公開等のメディア技術と相俟って、ゾミアの統治されないための術が生きていると述べているのである。そして、このことを石倉は「映像のゾミア」として提示しているのである。
この「映像ゾミア」という術を世界に向けて展開するのが、ゾミアの地であるベトナムの中部高原ダクラク(Dak Lak)にルーツを持つチュオン・コン・トゥン(Truong Cong Tung, 1986−)である。トゥンは、様々な少数民族が混じり合って暮らすベトナムの農業一家に生まれ、その後、10代後半でホーチミンに移り住み、ホーチミンの芸術大学で漆絵を専攻した。トゥンは、ベトナムの経済、政治、社会の急速な変化と、人間の欲望によって自然を変容させるという近代化のプロセスの中で、地方農村部と都市部の両方における環境への影響を目の当たりにしてきた。トゥンの芸術活動は、個人的な経験と、科学、宇宙論、哲学の分野での研究を通じて、人間の理性や自然環境に対する扱いの不条理を表現する。トゥンの作品は、多様な生物が入り混じり合い、しばしば重層的で、自然と人間の両方に由来する物質を扱って構成される。それらは首尾一貫したナラティヴを語っているようにみえるが、プロパガンダ等によって操作された複数のイメージ、情報、虚構、事実等を複合的に利用しながら、異化された世界を生み出している[2]。
図7 SOUZOUでの《Across the Forest》の展示風景(左)、トゥンのスタジオでの歓談の様子(右)
写真:筆者撮影
トゥンは、普段、ベトナム中部高原の土壌や植物等の素材を利用した映像インスタレーションを多用しており、その土壌と循環する水の流れによって展覧会場では、蒔かれた種から植物が生成的に育っている様子がみられることもある。本展では、ダクラクという場から切り離し、複製可能な4面スクリーン作品《Across the Forest(森を抜けて)》(2014、図7)を展示した。これによって、鑑賞者に対して、ベトナムの中央高原地方における複雑な視点を提示し、美しくノスタルジックというより混沌とした現実的な夢を垣間見させる効果が生まれた。
トゥンは、強大な自然の力に直面しながらも、それに飲み込まれることを拒絶し、風景の視覚的な力を再構築するために、意図的に何層ものイメージを広げている。筆者が、2023年1月15日にトゥンのスタジオを訪れた際には、この土地の土着の美しさを単純な手法で表現することを避けており、トゥンは映像を「パフォーマティブ・アーカイビング(performative achieving)」的に利用しているという。これは東南アジア美術史家のデーヴィット・テー(David Teh)が定義する通り、アーティストが映像技術を使い、ある事象をアーカイブしながらも、その事象を変容させていく、神話構築的な手法である[David2016:174参照]。また、これは「映像のゾミア」の発想と繋がる。つまり、本作では、四つのスクリーンを通じ、アーティストは、未来のノスタルジーのために、ベトナム中部高原を巡る人間と自然の歴史的な記録を作ろうとしているわけではない。そこで現れてくるのは、天然ゴムを採取する人の手、洗面器、鉄板、鳥よけのために木に吊るされた上着や高層ビル等の雑多なもの、テレビを見る農民、焼畑を行う農民、祈ったり、ただ寝たりする人々など、文脈の中で同時に起こっている断片的な現実であり、それらが自律的に新たな物語を生成していくのである。四つのスクリーンに囲まれた鑑賞者は、映像内において稲妻が光ったり、陽炎が光に包まれたり、幽霊のようなものが現れたり、街の光景が映し出されたり、まるで夢の中にいるようである。さらに飛翔し続ける無数の羽蟻のイメージ、この地域の物語や音楽等から集められた音源、雷、動物の鳴き声や遠吠等の歪んだ音の異様な響きの中に、空間は浸されている。筆者によるトゥンへのヒアリングによれば、「人間と虫はそんなに遠くないものだ」と述べていた。
特に虫は、日本やアジアを問わず、食料事情に害をもたらす存在として、古来の畏怖の対象でもあり、信仰の対象にもなってきた。例えば、紀南や津軽等には呪術的行事として「虫送り」という儀礼があり、紀南の民俗学者である杉中浩一郎(1922−)は、次のように述べている。
紀南地方では、ふつう六月の初丑の日に行われ、先導するのは大人であるが、子供の行事となっているところが多かった。笹や松明を持ち、鉦や太鼓を鳴らし、時にはほら貝を吹いたりして、列をつくって進んだ。その時唱える文句は「虫も蝿も飛んで行け、実盛さんのお通りじゃ」…(以下略)。[杉中2012:151]
今ではほぼ見ることはないが、紀南においても「虫送り」という風習が確かに存在していた。ここでいう「実盛さん」とは、平家に仕えた斎藤実盛(1111−1183)のことであり、田の中で、稲の切り株につまずいて討たれたことから、実盛の霊を祀れば虫の害を回避できるといわれていた。また民俗学者の野本貫一(1934−)は「イネの害虫は、怨霊・御霊などによって発生するものだと信じられていた時代があった」と述べている[野本2021:640参照]。この虫送り(その他、虫に墓を作るような「虫供養」もある)に代表されるように、虫は、死者の霊魂の化身として捉えられ、人間との異なる類の共同性を持つものだと考えられてきた。これは、まさにアニミズム的だといえる。そして、農薬や農機具等の近代化によって、このコスモロジーは、ベトナム、日本を問わず劇的な変容を迫られ、そのような行事、風習や農具等に現れる虫除けための技術は消え去っていく。もちろん、柑橘にとってカミキリ虫は純然たる恐怖である。
カミキリ虫は、柑橘の木を中から食い殺してしまう。この点について、アーティストの廣瀬と下津きょうだいみかん山の園主の大柿肇は、「コモンズ農園の未来構想―省農薬[3]農業の取り組みから学ぶ―」において対談を行った。大柿は、省農薬の結果、通常の柑橘農園では出てこないカミキリ虫等の昆虫が現れてきており、新たな昆虫との関係を模索し始めていると述べる。その近代以前の名残を持つベトナム中部高原の少数民族たちとの生活を踏まえて、トゥンは無数の羽蟻たちのイメージとともに、ベトナムの都市と地方の風景を多重的に映し出す。人間、虫、動物や土壌は、相互に作用しながら、その絡まり合いはイメージとして、今も伝達され続けるのである。トゥンの幻想的な世界が、「映像のゾミア」として実際の現実を侵食していくのである。
図8 SOUZOUでの《あわいの庭》の展示風景 写真:下田学
そして、これらのメコン川流域のアーティストたちに応答するかたちで、これまでも登場してきている中辺路在住の福島正知(1972−)を中心に展開するアーティスト・プロジェクトのAWAYAは、SOUZOUの庭において《あわいの庭》(2024、図8)を展示した。粘菌をイメージしたであろうオブジェに向けて声など音声を向けると、その音が縁側に設置した小型のスピーカーからコンピューター処理をした音声が生成され、そのオブジェクトは小さく振動し続ける。そのオブジェを通じて、前述したゾミア的時空間を生み出しているタイキやトゥンの作品の音源と交わり、応答しながら、AWAYAの熊野ゾミア的な世界が拡散していく。
まるで外界の刺激を受けたオブジェが、その音の刺激を固有の波動に変換しながら、紀南に生態系や場所に対して、新たなゾミア的な時空間として領有していくようである。福島は「音とは波動であり、エネルギーそのものだ」という。つまり、生命は、その活動によってある固有の波動、つまり粘菌の微細な振動のようにエネルギーの場を生じさせ、その音が届く場所を領有していく。そして、外部から何かしらの刺激を受けた生命は、それらの音にも影響を及ぼし、誰にも統治されずに、生を周辺に拡散していくのである。その意味で、音は、粘菌の胞子のように目に見えない微細なエネルギーを発しながら、流動しつつ、ときに相互瞬間的に交わり、集まりながら、誰も掴むことができない場所を生み出していくのである。
4.3 変わり続けるかたち
SOUZOUに併設されているBreakfast Gallery(もじけハウス)では、「変わり続けるかたち」というテーマで展示を行った。4.2「留まるという抗い」で述べてきた通り、「土壌時間」のように私たちが普通は「変わらない」と思い込んでいるほとんどの事象も、人間の時間軸や観念から引き離すことで変化の中にあることに気づかされる。熊楠が「生死は一時に斉一に息まず、常に錯雑生死あり」と述べた通り、全ては、少しずつ変化し、それらは「一時に一斉」には起こり得ず、徐々に時間をずらしながら、始まったり、終わったりしながら複雑に絡まりあって、巡り続けている事実が重要なのである。Breakfast Galleryでは、そのロゴス的な知性では、感知やコントロールしえない変容性をもたらそうとするアーティストたちを紹介する。
図9 スタジオで話すダラー(左)、Breakfast Galleryでの《Non-Binary》の展示風景(中、右)写真:筆者撮影
カンボジア出身のコン・ダラー(Kong Dara, 1990−)は、サ・サ・アート・プロジェクトで学び、2023年まで同コレクティヴのレジデンス・コーディネーターを務めた。クィアであるダラーはドローイング、彫刻、インスタレーションなど、メディアを横断して作品を制作している。紙や粘土にペンや色鉛筆を用いることが多く、個人的な経験、記憶、感情を調査し、しばしば社会変化やLGBTQ+コミュニティに関する社会的なプロジェクトも展開している。また現在、2024年5月に閉鎖したサ・サ・アートプロジェクトの跡地を活用し、まるでサ・サの実践をアップデートするように、クィアによるアート・プロジェクト「コクーン(cocoon)」を展開している。本展では、《Non-Binary》シリーズ(2024、図9)という複数の小型のドローイングと彫刻作品を展示した。
筆者が2024年6月14日にダラーの自宅兼スタジオに訪問した際には、ダラーは「それらの作品に現れる有機的な形態は、「生(性)」における変化や成長をイメージさせつつも、同時に既存の枠組みにとどまらないクィアな(未分化かつ無分別な)状態、あるいはオルタナティヴな選択肢を示したい」と述べていた。そして、ダラーは「クィア」とは、まさに「ノンバイナリー」の言い換えであると述べていた。その意味でいえば、熊楠もクィア的であり、自分の性自認が男性・女性のどちらにも当てはまらない、あるいは当てはめたくないというノンバイナリー・ジェンダー(nonbinary gender)であった。熊楠が「属魂の美人」[全集9:22]と称した羽山繁太郎、蕃次郎兄弟への情緒的な言葉がそのことを如実に物語っている。
外国にあった日も熊野におった夜も、かの死に失せたる二人のことを片時忘れず、自分の亡父母とこの二人の姿が昼も夜も見を離れず見える。(1931年8月20日付け岩田準一宛書簡)[全集9:25]
この言葉からも明らかな通り、熊楠は肉親並みに、羽山兄弟に対して愛情を持っていた。唐澤によれば、1886年4月29日の熊楠の日記に「my intimate friend」という表記からも、彼らは肉体関係も含めた親密な深い関係であったと推察している[唐澤2014:44参照]。熊楠は「男」や「女」の性別を超えた愛情を志向していた。このようにクィアな「自然状態」とは、熊楠の男女や非人間を超えた情緒的なものなのではないだろうか。
そもそも、クィアとは、直訳すると「奇妙な」「風変わりな」という意味を持つ言葉であり、多くの定義や意味が与えられている。ジェンダー・セクシャリティ研究者のジェームズ・ウェルカー(James Welker, 1970−)によれば、クィアは「社会規範に逆らうような、あるいは少しずつ転覆しさえするようなジェンダーとセクシャリティにまつわる表現・行為」と定義している[ウェルカー2019:11]。つまり、「クィア」は、しばしば差別され、社会的に排除されてきた性的マイノリティたちが、現代社会への反発と皮肉を込めて、自分たちを指し示す言葉として使われている。そして、熊楠とクィアに関連して、クィア研究者の辻晶子(1982−)は、「近代以降の日本学術界では表立って掬い上げられてこなかった性の問題にいち早く焦点を当て、性の多様性をひもとこうとした営為は、クィア研究の先駆けとなる」[辻2023:16]と述べており、男色講義を踏まえて、熊楠をクィア研究の先駆者として捉えている。また中沢新一も次のように、「男色談義」が、熊楠の粘菌研究への萌芽だったのではないかと述べている。
生の全ての領域で、彼(熊楠)は独自の様式をつらぬきとおそうとした。時代や社会が、自分に差し向けた生の様式のすべてを、いったんは否定して、そのうえで、自分の流儀や様式をみつけだそうとしていたのだ。どんなものでも、型にはめこまないこと、多様で、多形としての生の様式を発見するための、自己鍛錬を続けること。ミッシェル・フーコーは、セクシャリティを生のひとつだけの様式にはめこまないための実践のすべてを「ゲイ」と呼ぶことにしようと、提案している。…(中略)… 粘菌の中に、彼は「生命のゲイ」を発見していたのだ。粘菌という生き物は生/死の二元論を前にして、地球上の生命進化の過程が生命に差し向けてきた、ひとつの生命の様式の受入れを拒否して、思うままに自由な「粘菌的生存」と言うべき独自の様式をあみだしてきた、ユニークきわまりない生物なのだ。粘菌の生態を観察していると、それが普通の生命たちがとっている生/死の様式を、まったく否定してしまうような生き方をしているのではない、ということがわかる。粘菌も繁殖をおこなわなければならない。そのためには、地球生命が、長い進化のプロセスの中でねりあげてきた、生命の様式にしたがって、生きている。しかし、それでも、粘菌は「懸命にゲイになろう」として、進化してきた生物なのだ。[中沢1991:49,50]
すなわち、中沢は、熊楠のクィア(≒ゲイ)的な性質は、男女を超えた性愛に関する議論ではなく、熊楠を取り巻く生態系や生命論にも及ぶ事象として展開されるべきだと述べているのである。熊楠は、徹底的に画一化・均質化されることのない生命の本質を掴み、生物学、生命思想やセクシャリティ等の分野を超えて実践されてきた。この文脈を踏まえて、前述した本田は、この熊楠のクィア性を展開し、熊楠の自然観をクィア・ネイチャーという概念として昇華している。そして、このようなクィア・ネイチャーの内実は、自然界のあり方自体が、ノンバイナリーであり、分類がもはや不可能であることが、その存在論的な特質だと述べている[Honda2022:8参照]。
本田は、このクィア・ネイチャーの議論は、モートンのクィア・エコロジー(queer ecology)の概念[4]と類似していると指摘しており、このような思考のオルタナティブな歴史的ルーツは、南方熊楠や紀伊半島の思想から生まれたものではないかと大胆にも述べている[Honda2022:9,10参照]。筆者が、2024年8月23日に本田からヒアリングをした際には、本田は、西欧発の歴史だけではない、土着のローカリティを起点とした複数のナラティヴの可能性をひらいていくことが、環境破壊や植民地主義等の喫緊の問題に対応していくことに繋がるのではないかと述べていた。筆者もこの見解に賛同し、さらにいえば、カンボジアという熊楠を魅了した東南アジアの国[5]にも、クィア・ネイチャーの世界がひらかれている[6]。
本展で提示されたダラーの《ノンバイナリー》シリーズは、ペンと色鉛筆で描かれたドローイングと、未焼成の粘土で作られた彫刻的なインスタレーションで構成されており、繊細なドローイングは、青い糸がねじれ、地図のようなものに巻き付いている様子を描いている。絵の中央には薄黄色の形があり、よく見ると、その中で有機的な形が動き、泳いでいるように見える。ダラーによれば、この複数のドローイングは、オタマジャクシや有機体のイメージを、成長、変化、流れの象徴として用い、ダラーが新しい人々や友人と出会う場所を探索し、進化していく個人的な人生経験をマッピングしている。ダラーは、これらのドローイングを制作することで、人生の葛藤、愛情、人間関係、社会や政治、そして LGBTQ+コミュニティについて思考することを促していきたいという。一方、インスタレーションの粘土彫刻は、流動的かつ集団的に動くオタマジャクシの形をより鮮明に立体化し、一種の生命の動きを形成している。ダラーによれば、このカンボジアから紀南に移動してきた作品の未焼成で、小さな粘土の複数体は、土や生命の不安定さ、脆弱さ、そして、境界を超えて変容し続けることの意味を示しているという。このようにダラーは、生態、精神を示す作品、そして、アートプロジェクトを通じて社会を未分化・無分別していこうとする術を発動している。
このダラーのノンバイナリーな表現に応答するのが、アーティストの黒木由美(1991−)である。黒木は、「生きるだけのいきもの」をテーマとし、窯の中の焼成を生かした釉薬による造形表現を追求している。偶然にも、ダラーの作品のかたち(イメージ)と黒木の作品のかたちは、共通するものがある。黒木は、針金と釉薬を用いた独自の制作技法で作品を制作しており、到底計算どおりの物は出来ず、釉薬と針金が熱で膨らみ溶け合い生き物のような成り立ちで窯から出てきた時の高鳴りを求めて日々実験的な制作を行っている。それらの行為は「あるものを生かし」、ときに「無意味を受け入れる」という普遍的な生活のなかで、小さなところに寄り添える作品づくりを目指していると黒木は語る。
黒木は、今回7月12日から19日までトーワ荘に滞在し、それらの制作過程が今回の展覧会テーマの「粘菌」に近しいものを感じ、今回、黒木は、田辺市の柑橘農家などに協力を仰ぎ、ミカンの木や廃棄物を灰にして釉薬を作り、陶の新作《#50〜#58》(2024、図10)を制作した。それらの新作は、まさに分別不可能な「生まれたまま」のようなかたちをしており、変形菌のような一種奇妙な根源性だけが見て取れる。そこに何か特定の意味や分類を与えることは不可能である。黒木は、滞在中に「例えば、砂漠にいるときに、ただ生きるしかないという状態」というイメージが、想像力の原点にあると述べる。黒木によれば、釉薬は自律して動き始めながら、徐々に泡にも変容していくが、泡には繊細さと美しさ、そして沸き立たせるエネルギーと湧き出たものを消失させる儚さがあり、そして、泡には増殖と消失という両義的な意味を見出してしまうという。まさに泡は、粘菌の胞子のようでもあり、同作からは流動的ながらも固定化された一瞬のかたち、そして、目には見えない消失してしまった泡の存在が背景に感じられるのである。実際に、会期中においても黒木の作品は、そのかたちを崩壊させながら、小さき破片を多く残しつつ、それらは風に吹かれて消えてなくなっていく。黒木の作品は、ギャラリー内においても、変化し続けるのである。
そして、黒木は、この偶然性からしか生まれない作品のかたちには、頭の中では処理しきれない情報や心性がうごめくように現れたものかもしれないと述べる。砂漠のような枯渇する環境では、ロゴス的な思想を一旦止め、「ただ生きる」ということは、レンマ的な知性を稼働させながら、まさに土の上で、うごめくように生きることの必要性について問うているようである。
図10 紀南に滞在中の黒木(右)と《#50〜#52》の展示風景(左) 写真:筆者撮影
そして、紀南地域で育ち現在も田辺を拠点に活動を続ける杵村直子は、武蔵野美術大学卒業後、アクルや油彩を活用した平面における空間性を探究している。熊楠の生家から徒歩数分圏内で生まれ、育った杵村は、熊楠の影響を受け、そして、熊楠をアーティストとして捉えて、世界各地で風景をその場で描き上げる「絵描ノ旅」シリーズや日常を365日描きオンラインで公開する「日々絵」シリーズ、海と空をその場で描きあげるシリーズなど、具象と抽象のはざまを描きながら自身の制作を展開している。
そして、筆者が驚いたことは、アナ・チン(Anna Tsing, 1952−)の主著The Mushroom at the End of World(『マツタケ―不確定な時代を生きる術―』)において、あまりにも有名過ぎる表紙絵《Homage to Minakata》(2011、図11)に、杵村のペイティングが採用されていることである。杵村によれば、突然アナ・チンから連絡があり、紀南/熊野というローカルの世界から生み出されるイメージを起用したいというオファーがあり、同作を提供したという。ちなみに、アナ・チンは、Arts of Inclusion, or How to Love a Mushroomという論文で、熊楠が昭和天皇への粘菌入りの標本箱を渡したこと、その標本がある種アートのようなものだと言及していることも見逃せない[Anna2021:305参照]。
また、前述した対談「微生物―不確定な時代を生きるためのアート」の中で、杵村は「子供が描く作品は、論理とは異なり、熱中的に「いまここ」にしかない一瞬の可能性に溢れている」と述べており、これは誰かに何かを見せたり、誇示したりしようとせずに熱中状態を楽しんだ熊楠の実践と重なるという。そのような意味で、杵村は、子供の描く瞬間的な直感に基づいた作品をもっとも尊敬していると述べている。
図11 The Mushroom at the End of World(日訳:マツタケ―不確定な時代を生きる術―」)の表紙となった《Homage to Minakata》の展示風景 写真:筆者撮影、 田辺聖公会マリア礼拝堂《方舟を待つ》(2021)写真:アーティスト提供
杵村は、子どもたちの創造に大きな可能性を見出し、自作と他作という作家性を超え、ときに自己と他者を往還しながら、子どもが生み出すアートピースとの合作やコラボレーションも展開している。例えば、田辺聖公会マリア礼拝堂において制作された《wait for the ark(方舟を待つ)》(2021、図11)は、キリスト教において重要なイチジクの木の周辺に、子供たちが描いた動物等の絵を、杵村が模写、複数化し、その木を取り囲んだ。これは、まさにヘアートが述べる「熊野の孤独ではない木」を体現しているのではないだろうか。杵村は、それを意図していないにしろ、これは、筆者には熊楠のエコロジー観を見事に現し、西洋の一神教の世界をまるで包み込んでしまう。
図12 田辺第一小学校でのワークショップの風景、《つながりのかたち》の展示風景(右) 写真:筆者撮影
このような文脈を踏まえて、本展では杵村は《つながりのかたち》(2024)を制作し、日々流動、変動する作品を制作した。杵村は、地域の保育園、小学校や教会等から協力を得て、2枚のアクリル板に、地域の参加者たちが各々の粘菌や菌類の絵を描き、1枚はモビールの一部と成り、もう1枚の自身の作品として持ち帰ることができる。また杵村は、自身の作家性を超えて、アニミスティックに再び自己と他者のあいだに立つ。杵村と地域の人たちの協働によって構築された動く彫刻のようなモビールは、絶妙なバランスを保ちながら、絶え間なく揺れ動き、そして、互いに重なり合いながら鑑賞者に関係性の連鎖について問いかける。そこで描かれた粘菌たちは、揺れ動きながら、実際の粘菌のように中心のないネットワークを構築し、人間と自然の二元論を超えていくような巨大な粘菌図譜のようなものとして、粘菌とアートのアナロジーが示されているのである。
ちなみに熊楠が描いた粘菌図譜は、300枚以上あったのだが、病気に病んだ息子に修復不可能なまでに破られてしまったといわれており、2枚しか現存していない。この杵村の実践は、まるで幻の粘菌図譜を補完的に創造しているのだろうか。
4.4 境界をまたぐ
図13 《日々絵の標本箱》の展示風景(左)、《カポック》と《カンナ》の田辺市街の野外展示風景(中、右)
写真:筆者撮影
さらに、杵村の作品は、胞子のように飛び立っていく。杵村の複数の作品は、SOUZOUやBreakfast Galleryという杵村にとって「家」のようなところでもありながら、「家」でもないギャラリー空間として、「家」のあいだにある。その「家」の片隅では、杵村が毎日のように日々描き続ける《日々絵の標本箱―日々絵より》が展示され、杵村の日々の目線が小宇宙のようにネットワーク化されている。そして、杵村の作品は、その「家」を飛び越えて、田辺市内の野外にて一時的にひらかれた。
酒井が自分の身体は、「微生物のアパートメント」と述べているように、微生物は「家」と「外」を超えて、相互浸透的な棲み家を生成している。そして、その「家」は、境界がありつつも、自由に往来可能であり、前述した熊楠の「棲み分け」のエコロジーとつながっている。このように本展では、杵村による《カポック(kapok)》(2020)や《カンナ(canna)》(2021)等の複数の作品は、展示会場を飛び越えて、まちなかへと広がっていく。移動とは領域を超え続けることであり、また誰かの土地に侵入し、出ていくことの連続である。私たちの歩くことができる場所のほとんどは、個人や国などに属するが、例えば普段人が足を踏み入れない森のような場所に立った時、国籍、職業や肩書等の色々な属性から解き放たれて、その場所と対峙したような経験はないだろうか。このように表現に出会い、感性を開くことは、今いる場所の固定化された意味からも私たちを解放してくれる。つまり、人間も、まさに粘菌のようにあいだに立ちながら、支配/統治すること、支配/統治されることを繰り返していくのである。これはまさに酒井が述べた通り、脱植民地化は、決して終わらないプロセスということと深くつながるのである。杵村のペインティングは、ある意味で統治されたギャラリー空間から飛び出し、田辺市街の複数箇所において、まるで胞子のように、まだ統治されていない場所に寄生しつつ、新たな「家」を生成していったのである。
また久保寛子(1987−)は、先史芸術や民族芸術、文化人類学の学説のリサーチをベースに、身の回りの素材を用い、彫刻作品を制作している。今回、田辺市での川、滝や森等の自然を中心としたフィールド・リサーチを経て、《森の目(eyes of forest)》(2024)を発表した。田辺市内にあり、世界遺産でもある闘鶏神社[7]の鬱蒼とした森の中には、久保の白い農業用シート素材の複数の彫刻が浮遊している。ちなみに、熊楠の妻・南方松枝(1892−1955)は、闘鶏神社の宮司の四女であり、この神社は熊楠との関係が深い。熊楠は、神社の背後にある密林を「クラガリ山」と呼称し、植物や粘菌採集を行ったといわれている。久保は、制作背景について、次のように述べる。
紀南の森の中に入った時様々な動植物や昆虫の気配がした。木や森や岩自体を神とする原神道が生まれた古代の暮らしや世界観を想像した。生活が自然から遠ざかり森の神性を身近に感じられなくなった現代、形を持たぬ神を自分なりに可視化してみるとしたら。
森からこちらを見つめる目。
田畑では鳥害対策に大きな目の造形を使う人間もその他多くの動物も、進化の過程で外敵から身を守るため、他者の視線を認識する能力を身につけた。作品近くを歩く人はどこかから視線を感じるかもしれない。その先には森がある。森の目を通して向こう側にいる存在、人間社会の外側を想像する。枝葉に取り付けた目は風でゆらゆらと揺れる。[久保の制作用スケッチより抜粋]
久保は、視覚による人間界と自然界の区分を取り払おうとしているのだろうか。ある種粘菌の胞子にもみえる複数の白い制作物は、見る角度によっては目のようにもみるえし、神木などに付けられる紙垂(しで)のようにもみえる。そして、目がみえると、何より森の「顔」が現れる。ただ、この「顔」は人間なのか、動物なのか、あるいは植物なのかは、鑑賞者のイメージによって変化し続ける。森の「顔」は、アニミスティックに捉えどころがない。そして、その黒目の部分は、中空状態であり、白目の部分は網目状になっている。久保の作品は、神社の境界や森の境界に設置されたが、それらは境界にありながらも、両者は完全に分離されておらず、相互に浸透し合っていることを示している。このように久保の作品は、棲み家は違えど、人間と森との緩やかな相互浸透性を示しつつ、互いに水平的な目線を合わせるためのメディアとなっていた。これは、まさに熊楠の「棲み分け」のイメージと響き合う。
図14 闘鶏神社の御神木に設置された作品(左)、《森の目》の展示風景 写真:筆者撮影
また、ここでも、やはり、「呼吸」が重要になってくる。エマヌエーレ・コッチャ(Emanuele Coccia, 1976−)は、「呼吸」について、次のように述べている。
世界とは、息吹の質料・形相・空間・現実のことである。植物は〈あらゆる生物の息吹〉であり、〈息吹としての世界〉にほかならない。逆にいえば、あらゆる息吹は、世界に在るということが身を浸す体験であるという事実の証左でもある。呼吸するとは、わたしたちが浸透するのと同じ資格・同じ強度でもってわたしたちに浸透してくる環境に、浸りきることを意味する。すべての存在は、自身のもので浸る当のものに浸される限りにおいて、世界内の存在なのだ。[コッチャ2019:75]
コッチャが言おうとしていることは、植物が酸素や大気を生み出し、地表空間(クリティカル・ゾーン)に棲まう生命に酸素を与え、また動物は二酸化炭素を生成し、互いに老廃物を供給しあうという総体としての呼吸を通じて、地表空間での相互浸透的かつ流動的な世界を生成しているということである。つまり、人間と森は、呼吸/大気を通じて、互いに寄生し合い、相互に支え合いながら、生きているということである。
熊楠の発想は、このような世界内にある水平的な連帯・協働・寄生関係の直観から生まれた思想や実践なのだろう。この背後には「万物等価の魂の場所」という熊野という特異性が隠れている。植物の廃棄物である酸素やこれまで述べてきた微生物が人間の身体内部においても棲まっていることからも明らかな通り、人間も自然もともに定義したり、固定的な概念として捉えることは不可能なのである。自然が、モートンがいうような「人間をとりまく不穏なもの」であるのであれば、人間も「自然をとりまく不穏なもの」なのである。そのぎょっとするような森の目の目線は、日本列島において、古来から伝承されてきた畏れのイメージを伝える。自然の畏れを伝える寓話の伝承等がなされなくなったいま、まさに久保は、この自然に対する畏れのイメージを現代的に書き換えるのである。
このように人間と自然には「棲み分け」のための境界は存在している。ただ、久保の《森の目》は、複数の木々に設置されており、複数の人間と森のあいだにおいて、両方の境界をまたぐ媒介として機能している。このような媒介自体は、別に新しいことではなくて、神社の社や紙垂等をみても明らかな通り、このようなイメージは人間の古層のこころに眠っているのである。筆者やアーティストたちは、いままさにアートを媒介しながら、そのイメージを取り戻そうとしたのである。
5 そして、胞子の彼方へ
「アートは、究極的に苦しい。でも、やめられない!」
遅々として進まないアーティストたちの制作活動、準備が全く間に合わず、自身の身体を使ってポスターやキャプションを貼ったり、ガイドブックを配って回ったり、(全然できないけれど)ドリルで鉄に穴を開けたり、鋸で木材を切ったりしながら木工を行ったり、これまで展覧会等の準備や開催に際して、身体的にも精神的にも苦しい場面は数多くあった。ただ、このようなプロセスにおいて、筆者には確実に生きている実感や解放感があったのも事実である(だから、誰に何をいわれようと、アートの実践はやめられない)。
では、なぜ生きている実感があるのか。それは、端的にいうならば、自分自身を壊すことによって、自身のこころを維持することができたからである。というのも、人間を含む「生命」は、秩序を維持しようとするこころを持つだけでなく、それと同時に統治に対して抵抗したり、秩序を崩壊させたりしようとする両義的なこころを本性として有している。そして、ロゴス的な統治・支配の中で、ときに痛みを伴いながら、無目的・無意味とも思える実践を継続することは苦しいのも事実だ。しかしながら、現代の硬直的な世界で生きる筆者たちは、この統治から逃れようとする生得的なこころの動きを放棄することはできない。だから、壊すことによって「生」の実感を得るのである。ここで壊しているのは、ロゴス的な思考である(但し、致命的なところまでは、破壊してはいけない。)。ここまで述べてきた通り「秩序」は、ロゴス的な思考によって生み出されているが、そのロゴスはレンマに依っていることを鑑みれば、もちろん「秩序」の中にも、実はこころは宿っている。
つまり、壊すということは、こころの本来的衝動なのであり、同時に壊すからこそ修復あるいは再構築することができるのである。ここまで述べてきた粘菌という原初的生命体のライフサイクルが示す通り、秩序を作り→壊す→豊穣な無を志向する→再構築する→壊す……というこの無限のサイクルこそが、「生命」の本質なのである。
筆者たちは、このようにロゴス的な歴史観では捉え切れない物語を想像し、ロゴス的な知性を揺り動かし、ときに抵抗・破壊していくような遊戯や神話(アート)を求め続けていく。その遊戯性が導き出すレンマの物語は、筆者たちを二元論的な「統治する/統治される」ことから解き放つ。アートは、ロゴスに毒された私たちが、まるで微細な胞子となって、瞬間的に、開かれたトポロジーの彼方に消えてしまうことを許容するだろう。粘菌が凝り固まった子実体となった後、胞子になるとき、あるいは、変形体に戻るときに、粘菌は一体何を思うのだろうか。この想像力/創造力こそが、粘菌のように、一つの統治を超えた世界を生み出し続ける源泉となっていくのではないだろうか。
<参考文献>
1) Anna Tsing, Arts of Inclusion or How to Love a Mushroom, Mellisa Caldwell (Edit), Why Food Matters: Critical Debates in Food Studies, Bloomsbury Publishing, 2021
2) Charlotte Brives, Ecologies and promises of the microbial turn, REVUE, d’sAnthoropologie, Sage, 2021
3) Eiko Honda, Knowledge without Supremacy: Japan Studies in the Face of Global Ecological Crisis, Toshiba International Foundation and European Association for Japanese Studies, 2019
4) Eiko Honda, Minakata Kumagusu and the emergence of queer nature: Civilization theory, Buddhist science, and microbes, 1887-1892, Cambridge University Press, 2022
5) Eiko Honda, Minakata Kumagusu and the Microbial Turn in Theories of Evolution and Civilization, 1887-1892, Modern Asian Studies, Volume 57, Issue 4, Cambridge University Press, 2023
6) David Teh, What is an animate image?, Conscious Realities, Vol.1, San Art & Hoa Sen University Press, 2016
7) Heather Paxson, Stefan Helmreich, The perils and promises of microbial abundance: Novel natures and model ecosystems, from artisanal cheese to alien seas, Social Studies of Science, Vol.33, No.2, Sage Publications, 2013
8) Maria Puig de la Bellacasa, Soil Times: The Pace of Ecological Care, the University of Minnesota, 2017
9) Philip D. Curtin, The Black Experience of Colonialism and Imperialism, Sidney W. Mintz, Slavery, Colonialism and Racism, WW Norton, 1974
10) Sakai Isao、Saki-Sohee、『Decolonize Futures Decolonization and the Environmental Crisis Vol.2』、2023
11) 石倉敏明、「朽ちていく時間―生物と土を結ぶ虫送りの想像力」、奥野克巳、近藤祉秋(編)、『たぐい』Vol.4、亜紀書房、2021年
12) 石倉敏明、「異化されたゾミアの物語 アピチャッポン・ウィーラセタクン「真昼の不思議な物体」をめぐって」、明石陽介(編)、『ユリイカ』第54巻(3月号特集 アピチャッポン・ウィーラセタクン)、青土社、2022年
13) エマヌエーレ・コッチャ、嶋崎正樹(訳)、『植物の生の哲学』、勁草書房、2019年
14) 唐澤太輔、『南方熊楠の見た夢―パサージュに立つ者―』、勉誠出版、2014年
15) 倉田昌紀、資料「紀州・白浜温泉という国内植民地の再生産」、『言語文化研究』19巻1号、立命館大学国際言語文化研究所、2006年
16) 四方幸子、『エコゾフィック・アート 自然・精神・社会をつなぐアート』、フィルムアート社、2023年
17) ジェームズ・C・スコット、佐藤仁(監訳)、『ゾミア―脱国家の世界史―』、みすず書房、2013年
18) ジェームズ・ウェルカー、「ボーイズラブ(BL)とそのアジアにおける変容・変貌・変化」、ジェームズ・ウェルカー(編)、『BLが開く扉―変容するアジアのセクシャリティとジェンダー』、青土社、2019年
19) 杉中浩一郎、『南紀熊野の諸相―駆動・民俗・文化』、清文堂、2012年
20) 鶴見和子、『南方熊楠―地球志向の比較学―』、講談社、1981年
21) ティモシー・モートン、篠原雅武(訳)、『自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて』、以文社、2018年
22) 倉田昌紀、「紀州・白浜温泉という国内植民地の再生産―私の国内植民地での体験―」、西川長夫、高橋秀寿(編)、『グローバリゼーションと植民地主義』、人文書院、2009年
23) 野本寛一、『生きもの民族誌』、昭和堂、2021年
24) 辻晶子、「南方熊楠と岩田準一の「男色談義」」、辻本侑生、島村恭則(編)、『クィアの民俗学―LGBTの日常をみつめる』、実生社2023年
25) 福岡正信、『自然農法 わら一本の革命』、春秋社、1983年
26) フェリックス・ガタリ、杉村昌昭(訳)、『三つのエコロジー』、平凡社、2008年
27) 南方熊楠、『南方熊楠全集』全12巻、平凡社、1971〜1975年(「全集」と略記)
28) 南方熊楠、『高山寺蔵 南方熊楠書翰 土宜法龍宛 1893-1922』、藤原書店、2010年(「高山寺書簡」と略記)
29) 南方熊楠、土宜法龍、『南方熊楠 土宜法竜往復書簡』、八坂書房、1990年(「往復書簡」と略記)
30) 中沢新一、「改題 浄のセクソロジー」、南方熊楠、中沢新一(編)、『浄のセクソロジー』、河出書房新社、1991年
31) 中沢新一、『森のバロック』、講談社、2006年
32) 中沢新一、『レンマ学』、講談社、2019年
33) 安田登、『あわいの力―「心の時代」の次を生きる』、ミシマ社、2014年
34) ユルゲン・オースタハメル、石井良(訳)、『植民地主義とは何か』、論創社、2005年
インターネット資料
- 藪本雄登、「なぜ「紀南アートウィーク―ひらく紀南 籠もる牟婁―」か」、紀南アートウィーク公式webサイト(https://kinan-art.jp/info/113/)、2021年(2024年7月閲覧)
- ヘアート・ムル、「熊野に孤独な木はない」、紀南アートウィーク公式webサイト(https://kinan-art.jp/info/18905/)、2024年(2024年9月閲覧)
[1] ゾミアとは、オランダ人歴史学者ウィリアム・ファン・シェンデル(William Van Schendel)による造語であり、チベット・ビルマ系言語の「ゾ(zo)」は「奥地」を意味し、「ミア(mia)」は「人々」という語源に由来する[スコット2013:14参照]。スコットは、シャンデルの概念を引き継ぎながら議論を展開しているが、スコットが定義する地理的な意味でのゾミアは、タイ、ミャンマー、ラオス等の東南アジア大陸部、中国南西部、インド北東部の山岳地帯に限定されている。
[2] トゥンは、2012年にアート・コレクティヴであるアートレイバー(Art Labor)の創立メンバーであり、非人間を含む生命を巡る共同性を生み出しながら、オルタナティヴな知性を模索している。
[3] 省農薬とは、無農薬、有機栽培を目的とせず、生産者、消費者双方にとって安全安心な栽培方法をその時々の状況(天候や樹)によって臨機応変に対応し、国の決めた基準などに沿ったものではなく、努力で減らせるだけ減らして栽培を行うマインドのことを指す。1968年、和歌山県海草郡下津町大窪(現海南市)で一人の高校生が農薬(フッ素系殺虫剤)を散布した後に死亡した事件を経て、両親とその弟が農薬を減じたミカン栽培を始めることとなる。農薬使用が全盛だった高度成長期の70年代から最小限の殺菌剤、マシン油、害虫ヤノネカイガラムシに対する天敵ヤノネツヤコバチを用いて害虫対策等を行い、出来るだけ安価な値段で消費者の食卓へ届ける試みを行っている。
[4] モートンは、「クィア・エコロジー」を人間の外で理想化された原始的で、野性的な存在としての「自然」はもはや存在せず、もはや「奇妙で、親しみがありつつも、不気味なもの」として考えるべきだと考えている。またモートンは、クィア・エコロジーをダーク・エコロジー(dark-ecology)とも言い換えている。
[5] 熊楠は、カンボジアの信仰や寓話について強い関心を持っていた。イギリスでの最初の熊楠の筆写は、ジェーン・ムーラ(Jean Moura, 1827−1875)の『カンボジア王国』(1883)であることからも明らかである。
[6] 個人的な実感上、タイやカンボジアには圧倒的にクィアの方が多い。例えば、筆者が運営する法律事務所のタイ事務所でも、クィア的な性別のスタッフが過半数程度を占めている。
[7] 闘鶏神社は、419年に創建された神社であり、熊野三山の別宮的な存在として、熊野信仰の一翼を担っていた。闘鶏神社という名前は、平家物語の壇ノ浦合戦の紅白の鶏を戦わせる鵜合せの故事に由来している。
藪本雄登 紀南アートウィーク実行委員長
和歌山県白浜町出身(西富田小学校、富田中学校、田辺高校出身)
藪本の先祖は、熊野古道・中辺路の地に眠っており、母はアドベンチャーワールドで初代女性のシャチの調教師を務めたルーツがある。2011年にOne Asia Lawyersの前身となるJBLメコングループを創業。十数年に渡り、カンボジア、ラオス、ミャンマー、タイ等に居住し、業務の傍ら、各地のアーティスト、キュレーター、アートコレクティブ等への助成や展示会の支援を行っている。現在、アジア太平洋地域の神話、伝説、寓話や民俗等に関心を持ち、人類学とアートについて研究を行っている。その中でも、祖先が眠る熊野地域をフィールドに持ちながら、ゾミア、高地文明やアニミズム等といった事項について、調査研究を行っている。