コラム

    奥性を思考する

    唐澤太輔

    紀伊半島の南西部、白浜の海に面した岬の先端。川久ミュージアムは「奥」を思考する場として、極めてふさわしい。岬は、地理的に外へと突き出た場所である。同時に、そこは深部を感受させる地点でもある。深部、つまりこの世とは異なる次元でありながら、なお切断されることなくつながっている領域である。そこを異界、常世、ニライカナイ、もしくはあの世と呼ぶ者もいる。外へと向かいながらも、その運動がそのまま深部(内奥)へと反転しながら接続していく。――そこには内と外とが分離されずに連結するクラインの壺的な位相がある。

    また、ミュージアムのあるホテル川久は、その絢爛豪華な建築から「夢の城」とも称される。古来、夢は異界、あるいはそこへの通路とされてきた。夢は、心の内側、そしてその奥外へも続いている。ここは、否が応でも奥を思考してしまう時空間を帯びているようだ。

    とは何か。それは単なる「奥にあるもの」ではない。むしろ、内と外、光と闇、可視と不可視といった差異が、断絶することなく関係として働くとき、その接続の場に立ち現れる現象である。つまり、奥とは場所ではなく、差異が深い関係を結ぶときに生起する出来事であるとも言える。

    奥は「隠れ」あるいは不可視性をその本質的契機として持つ。そして、それは「開け」(可視性)があって初めて成り立つ。闇的な隠国(こもりく)は、光的な顕世(うつしよ)と切り離されて存在するのではない。両者は、対立しながらも連続し、その接点で私たちは奥性を感得するのだ。

    本展のタイトルにもなっている作品《ひそやかにいる》は、この光と闇の関係性を見事に表していた。光源から照らされた繭状の黒いオブジェは、壁面に巨大な影を映し出す。また、オブジェの小さな穴は大きさを変えて貫通し、向こう側へと開かれている。繰り返すが、私たちが強く奥を感じるのは、光と闇、隠れと開けとの関係性においてである。つまり、世界の厚さ(奥行き)は、両極の片方にいるだけでは真に知ることはできないということだ。

    繭の小さな穴を覗き込んでいると、視線はさらに奥へと引き込まれていく。もっと近くで穴を覗いてみたくなるが、繭の周りには水がはられていて、それは叶わない(ちなみに、ここはかつて大浴場として使用されていた場所である)。この「もどかしさ」は、私たちにより奥を渇望させる。そして奥を単なる対象ではなく到達し得ないものとして経験させる。そこにあるのは固定された深さではなく、常に動き続けるような無底の奥だ。

    《ひそやかにいる》と双子の対をなすのが《粒が地を撫でたとき》だ。「洞(うろ)」に見立てられた器には、塩の飽和水溶液が流し込まれており、表面は白く結晶化している。《ひそやかにいる》が、滑らかでマットな黒色(炭で塗装したという)である一方、《粒が地を撫でたとき》は、でこぼこした輝く白色を基調としている。これらは対極にあるように見える。しかし私は、後者からも確実に奥性を感じた。それはおそらく、これが「月」を想起させるものだからだろう。実際、後藤はこの作品を見た鑑賞者から「月面のようだ」という感想を何度かもらったという。月は、いつも私たちに、地球からは決して見えないその裏側を想像させる。また古来、人々は天空の月を通じて、自身の内面を見つめていた。お月見は、月を見るだけではなく、本来的に自分自身の心を見つめる行為なのだ。心に月を思い描きながら深く内省する「月輪観」という密教の瞑想法もある。

    《ひそやかにいる》で使用された砂つぶ、《粒が地を撫でたとき》の塩――。後藤は、このような小さな粒にも奥性を感じると言う。南方熊楠(1867-1941)は、顕微鏡で覗く微生物の中に大宇宙を感じると言った。ウィリアム・ブレイク(1757-1827)は「一粒の砂に世界を見る」と言った。極小の中に入り込めば入り込むほど、それは極大の時空間へと通じている。このような反転的接続が、世界のトポロジーの本質なのかもしれない。

    繭を制作する際に削った欠片をから作られた作品が《たちあらわれる》である。後藤は、繭を構成していた内部が切り出され偶然露呈したことに着目した。ここでもやはり内部と外部という差異が交差する。そして、そこに立ち現れるものこそ奥性である(「奥にあるもの」ではない)。

    ちなみにこの欠片は、《Drawing》でも使用されている。ドローイングというと、普通、鉛筆やペンあるいは木炭などで線を引くことを思い浮かべる。しかしここでは、紙に欠片がそのまま貼り付けられている。私は、後藤にとってドローイングとは何なのかを尋ねてみた。彼女は「自分の内側を引き出すもの」と即答した。つまりそれは、心の内奥を汲み上げる行為そのものなのだ。もしくは、心の不可視の場への導線と言えるかもしれない。勿論、その道は一本の直線などではなく、有機的に曲りくねり、滲むように染み出すものだろう。

    内と外、隠れと開けが、滲むように、重なるように関係し合う。この関係性が、私たちに根本的な奥を感じさせる。そして、それは視覚だけに拠らない。聴覚によっても可能である。ジョルジオ・チェリベルティによって描かれた天井画が特徴的なドーム型の大宴会場では、サウンド・インスタレーション《あなたのふるえは、わたしのふるえと》が展開された。事前にワークショップ形式で収録された12名の声。母音のみで構成されたその声は、共振し、絡まり合い、不思議なハーモニーを成す。自分の内側から出た声は空気を伝わって広がっていく。そして響きあう。それぞれの声は波紋のように広がり、合わさり、やがて消えていく。差異を保ちながらも関係し、不思議な響きの場を形成する。周囲のスピーカーから聞こえてくる声は、目を閉じていても、ここが空間的に奥行きのある場所であることを感じさせる。それと同時に、異質な声同士の関係が生成する音響的な厚みが体験される。

    《おこり、あるいは兆し》は、歪な(しかし不調和ではない絶妙な)黒い「輪」が展示されている。そして、その輪は、後藤が白浜周辺で拾った石の上に乗せられている。この輪と石のわずかな接点には、特別な緊張感が宿っていた。これまで述べてきたように、私たちは、この差異的接点にこそ奥性の真髄を感じることができる。鑑賞の角度を変えると、輪は空間上に重なって見える。それはまるで様々な声の波紋が合わさるその刹那を視覚化したような造形になっていた。

    奥には、まだ通常の時間になる以前の「原-時間」がある。それはクロノス(連続し均質な時間)的なものではない。通俗的な過去―現在―未来の概念を超えた「今この瞬間」において、その都度生起しているカイロス的なもの(質的で決定的な「とき」)だ。厳密には、その「とき」で私たちは奥性を感じ得る。

     本展は鑑賞者に奥を強制することはない。しかし確実にそれが生起する瞬間へと導く。そしてどの作品も、後藤がどこまでも深く奥について考えてきた軌跡を内包し、独特の気配を醸し出している。私は、このような後藤が、奥そして奥性に強い関心を持ったことは偶然ではないと思っている。秋田で生まれ現在は宮城に住む彼女には、みちのく(道の奥)の地理的・文化的要素が濃く染みついている。その場所は、常に神話的もしくは霊的な気配を帯びている。奥が立ち現れる場で生きてきた後藤が、隠国の地を巡り、夢の城で個展を開催したのは、もはや運命としか言いようがない。後藤は、今後、どこに奥を見出すのだろうか。それはやはり、場所だけではなく出来事としての奥でもあるだろう。