コラム

    【キュレーションストーリー Vol.2】南紀白浜温泉 ホテル川久

    紀南アートウィーク キュレーションストーリー

    紀南アートウィークにおけるキュレーションのバックヤードをご紹介するシリーズ「キュレーションストーリー Vo.2」をお届けします。
    第二回目は、世界各国の一流職人による匠の技を集結して造られた“夢の城” 南紀白浜温泉 ホテル川久様をご紹介致します。今回、紀南アートウィークの展示場所となりますので、その成り立ち、歴史、思想等を深堀りしていきます。

    南紀白浜温泉 ホテル川久
    http://www.hotel-kawakyu.jp/

    ホテル川久 インペリアルラウンジ http://www.hotel-kawakyu.jp/club_stage/
    ホテル川久 ロイヤルスパ http://www.hotel-kawakyu.jp/hotspring/
    ホテル川久 レストラン HP http://www.hotel-kawakyu.jp/restaurant/

    <今回のゲスト>

    南紀白浜温泉 ホテル川久
    岡村 和哉 さん
    ホテル川久の生き字引的存在。紀伊田辺シティプラザホテルで勤務の後、ワインの勉強をするためにホテル川久へと転職。レストランの支配人やオペレーション部門の支配人などを歴任した。現在は役職を離れ、後進の教育、育成に当たっている。

    <聞き手>

    藪本 雄登
    紀南アートウィーク実行委員長

    <参加者>

    杉 眞里子 
    紀南アートウィーク副実行委員長

    下田 学
    紀南アートウィーク事務局長

    <編集>
    紀南編集部 by TETAU
    https://good.tetau.jp/

    「世界の数奇屋」が紡ぐ夢 - 建築とアートの融合 –

    目次

    1.「河久」から「川久」へ
    2.起死回生の一手、金の馬車
    3.夢と情熱が詰まった唯一無二のホテル
    4.受け継がれる「安間イズム」
    5.職人たちの狂気をつなぐもの
    6.ホテル川久は、夢びとたちの楽園

    1.「河久」から「川久」へ

    出典:川久ミュージアム | 和歌山県南紀白浜に浮かぶ美術館 https://www.museum-kawakyu.jp/

    藪本:
    本日はお時間を頂きまして、ありがとうございます。
    まずは、岡村さんのご経歴について教えていただけますでしょうか。

    岡村さん:
    もともとは田辺市のシティプラザホテルで働いていたのですが、ワインの勉強がしたくて川久に転職しました。当時の川久は2万5000本ものワインを所有していて、東洋でナンバーワン、世界でも十指に入るほどのワインセラーを所有していたんです。入社後はレストランの支配人やサービス部門を統括するオペレーション部門の支配人などを務めました。

    出典:館内施設 | 白浜温泉ホテル川久 http://www.hotel-kawakyu.jp/facilities/ 

    しかし、リーマンショック以降に財政危機に陥り、その影響で私も体調を崩してしまいました。そのため、現在は役職を外れてフリーの立場で後進の指導に当たっています。

    藪本:
    そうなんですね。また、川久さんの歴史についても教えていただけますか。

    岡村さん:
    川久は南紀白浜温泉の老舗旅館からスタートしています。創業を始めた詳しい年代は私にもわからないのですけども、大正の終わりか昭和の初めからある旅館です。最初の経営者は、大阪船場の商人である河内屋久兵衛(かわちやきゅうべえ)という方です。ご自身の名前の「河」と「久」をとって「河久」と名付けられました。

    河内屋久兵衛さんが起こした老舗の旅館「河久」に、次のオーナーになる安間さんという方が、新婚旅行で昭和の初めに泊まりに来ました。そのときに河久をとても気に入り「将来はこの旅館を経営をしたい」と言って、当時のお金で500円分を支度金のような形で置いていったらしいです。

    私が川久に入社した時には安間さんは会長になられていて、カリスマ的な存在でした。

    安間千之(やすまかつじ)さんというのですけれども、千之さんはもともと奈良県の吉野町の出身の方で、江戸時代から代々商売をしている家庭で育てられて、7人兄弟の5番目に生まれました。しかし、明治に入って商売がうまくいかなくなったので「子供を一人だけ出家させてお坊さんにさせよう」ということで、5歳の時に籍を抜いて出家させられます。

    17歳になるまでの約12年間、清水寺などでお坊さんの修行をされたあと、還俗して東京で商売を始めます。とても工夫に富んだ方で、商売の業績で一番になることもあったみたいです。その後は大阪に戻って商売を始めました。

    しかし、戦争が始まり、戦時中は陸軍が旅館を使用して、戦争が終わったあとは南海トラフ地震による津波の被害にあい、旅館はボロボロになってしまいました。河内屋九兵衛さんも「これは無理だ」と判断して、誰かに経営を変わってほしかった時に安間さんを思い出し、経営者の交代が決まったみたいです。それが、1949年の9月になります。オーナーが安間さんになった時に、旅館の名前も「河久」から現在の「川久」に変わりました。

    2.起死回生の一手、金の馬車

    出典:川久ミュージアム | 和歌山県南紀白浜に浮かぶ美術館 https://www.museum-kawakyu.jp/

    藪本:
    旅館は何年ぐらい使えなかったのでしょうか。

    岡村さん:
    どれぐらい使えなかったのかはわかりませんが、旅館を引き継いだ当初はなかなかお客様が来なかったみたいですね。それでも頑張って経営していたのですが、もう駄目となった時に偶然、皇族の方が使っていた金の馬車が競売にかけられていて、「これや!」と思って借金して購入したようです。

    大阪の街中で「南紀白浜温泉 ホテル川久」と書いた金色の馬車が走っていたら気になりますよね。それを見て白浜駅に来た宿泊者をその金の馬車で送迎するなど、奇抜な試みをする方でした。

    1971年には和歌山で国体(黒潮国体)が開催されるのですが、金の馬車の経緯もあり、紀南地域で天皇陛下にお泊りいただくホテルが川久になります。そこからは、「天皇陛下にお泊りいただいた老舗の旅館」ということで人気が出たと聞いています。

    その後、建物が老朽化して改築する時に「歴史に残る建築物を作ろう」という話になり、約3年の建設期間を経て、1991年11月20日にリニューアルオープンしました。社長、社長のご兄妹であるマダム・ホリ、設計を担当した永田祐三(ながたゆうぞう)先生の三人が世界中のさまざまな場所に行って、アーティストやマエストロと交渉したそうです。

    藪本:
    当時の新聞を拝見させていただき、どのような人たちが参加したのか大まかには把握しているのですが、建設期間中はとても大変だったみたいですね。

    岡村さん:
    そうですね。そのなかでも中心となった人がマダム・ホリで、「建設中の3年間はまったく休んでいない」と言っていました。常に前向きな人でしたね。当時はかなり叱られました(笑)けど、とても尊敬しています。

    藪本:
    なぜ怒られるのですか(笑)。

    岡村さん:
    すべてにおいて厳しい人で、妥協を許さない方でしたので。マダム・ホリが連れてくるお客様はすごいお客様ばかりでしたので、良い経験をさせていただきましたね。マダム・ホリのお客様のサービスをしていると、マスタークラブのお客様でも緊張せずに接待できるようになりました。

    3.夢と情熱が詰まった唯一無二のホテル

    出典:川久ミュージアム | 和歌山県南紀白浜に浮かぶ美術館 https://www.museum-kawakyu.jp/

    藪本:
    お話を聞いて気になったのは、今までにないホテルをなぜ作ろうとしたのかということです。やはり、マダム・ホリの意思の源泉と思想についてお伺いしたいです。

    岡村さん:
    当時はバブルの絶頂期ということで建築ラッシュでした。しかしながら、周囲を見渡してみると立っているのはコンクリートの高層ビルばかりです。バブルの時代は日本の歴史が始まって以来、経済でもっとも成功した時代と言われていますが、その時にできたものがコンクリートの塊の高層ビルですかと、それを後世に残してどうなのよ、という思いがあったようです。

    では、もっと他にないもの。フランスに行ったらフランス調のもの、イタリアに行ったらイタリア調のものがありますが、さまざまな国の良い部分を組み合わせたものはあまりありませんん。それらを融合させて世界に一つだけのホテルを作りたいというコンセプトがあり、世界中からいろんな職人を集めたと聞いています。

    交渉していくなかでたくさん大変なことがあったようなのですが、一番大変だったのが川久の屋根瓦です。黄色の瓦で、北京の紫禁城と同じ瑠璃瓦です。設計者の永田先生とマダム・ホリが、中国の北京に瓦を買いに行った時に、「せっかく来たんだから」と紫禁城を見に行ったようなのですね。そして、紫禁城を見て「この瓦が欲しい」「これしかダメ」となったみたいです。

    すぐ交渉するのですが、普通に考えたらダメですよね。黄色は古代中国において皇帝しか使えない高貴な色で、老中黄と呼ばれていました。その高貴な黄色の瓦を和歌山県のとあるホテルの屋根に使うなんて、相手からしたら考えられませんよね。それでもマダム・ホリは、紫禁城の瓦がどうしても欲しかったみたいで、最終的に北京へ20回も行って交渉したそうです。相手も情熱負けして、47万枚の瓦を焼いてもらうことが決まりました(笑)。

    出典:川久の魅力  | 白浜温泉ホテル川久 http://www.hotel-kawakyu.jp/art/

    ちょうど今、「川久ミュージアム設立記念映像」というビデオクリップを作成していて、その動画の中で「情熱を通り越して狂気」とマダム・ホリが言っていますけれども、本当にそんな世界かなと思います。

    藪本:
    今回の紀南アートウィークでは、まさに「紀南を全世界化する」ことを目的にしています。本当に価値があるものを世界へ輸出するというコンセプトなので、東洋も西洋も関係なく世界中の良いものを集約させた唯一無二の建築物である川久に関心を持ちました。

    この徹底的にこだわる姿勢はどこから来たのでしょうか。安間社長が、「とにかくベストなものを作れ。細かい部分はマダム・ホリと永田先生に任せる」という感じだったのでしょうか。

    岡村さん:
    それはあります。どれだけマダム・ホリが「これをやりたい」と言っても、最終的な決定権は安間社長にあるので。安間社長はマダム・ホリに全幅の信頼を置いていたみたいで、ほぼすべて許可していたと言っていました。

    藪本:
    しかしながら、川久は改築から4年後に破綻してしまうのですよね。

    岡村さん:
    当初は、180億円から200億円で建築する予定だったのですが、結果的にはおよそ2倍もかかってしまったことが4年後の経営破綻につながってしまったのかなと思います。

    すぐ銀行管理になり、それでも立て直せなかったので会社更生法の申請ですね。そこから、1999年に現在のカラカミグループに買収されました。買収されてからもリーマンショックなどさまざまな困難がありましたが、2015年頃に白浜地区の投資が盛んになり、川久も良い形で立ち直れました。

    3年前にはカラカミグループの社長が変わり、「川久を世界に発信したい」とのことで川久ミュージアムの立ち上げをしています。また、2020年8月には川久の金箔天井がギネスブックに登録され、2020年12月8日に授与式が行われました。ギネスのプロジェクトは旧経営者であるマダム・ホリとカラカミグループの現社長が共同で進めていましたね。

    4.受け継がれる「安間イズム」

    出典:川久ミュージアム | 和歌山県南紀白浜に浮かぶ美術館 https://www.museum-kawakyu.jp/

    藪本:
    マダム・ホリが積極的に推進しているのですね。世界に誇れる川久を作り上げたマダム・ホリは、どのようなバックグラウンドをお持ちだったのでしょうか。

    岡村さん:
    マダム・ホリは安間会長のご息女で、とても可愛がられていました。安間ファミリーには掟のようなものがあり、高校を卒業したあとは関西学院大学へ入学し、2年間だけ関西学院大学へ通い、残りの2年はどこでもいいので海外へ留学すると決まっていたようです。マダム・ホリはオランダに留学し、貿易などの勉強をされたと聞いています。卒業後は貿易関連の仕事をされていたようです。

    社長は一貫して旅館業ですね。大阪の日航ホテルの地下にあった和洋折衷レストランと、安間会長がもともとお坊さんで薬師寺の館長さんと親交が深かった関係か、薬師寺の敷地内でのレストランとを経営していました。

    藪本:
    安間会長は元お坊さんということで、文化や芸術に対する支援も惜しみなかったのですか。

    岡村さん:
    そうだと思います。約12年間、お坊さんとして修業をされていたので。

    藪本:
    安間会長がお坊さんだったというバックグラウンドから、仏教美術などの仏教要素がマダム・ホリに入ってくるわけですね。さらにオランダにも留学されていた。

    川久を改築を始めた当時、マダム・ホリは何歳ぐらいだったのですか。

    岡村さん:
    50歳の半ばぐらいです。ビデオクリップを作成するために2時間ぐらいインタビューをしましたが、30年前のことも鮮明に覚えておられて、改めてすごい方だと思いましたね。

    下田:
    私もビデオクリップを拝見したのですが、動画の中でマダム・ホリが「川久は異世界で異空間であるべきだ」のような発言をされていました。お客様から深夜の2時に「今から宴会がしたい」と言われたら、それを実現する場所が川久で、すべての欲望を受け入れる場所なのだと表現されていましたが、オープンしてからそうした非日常の場面は実際にあったのですか。

    岡村さん:
    ありましたね。原則としてお客様に「ノー」は絶対に言ってはダメだと言われていました。最終的にさまざまな問題を考慮して「ノー」に近い状況になっても、まずは「イエス」と言ってできることをします。

    夜の12時ぐらいにチェックインがあっても、それが大切な VIPでしたら、十何人のスタッフがフロントで並んで「いらっしゃいませ」とお出迎えしていました。

    下田:
    そこからお食事やお酒の準備をして。

    岡村さん:
    はい、そうした状況は頻繁ではありませんが、当時は普通にありましたね(笑)。

    下田:
    特別な体験を提供するために、何か工夫していることはあったのでしょうか。

    岡村さん:
    お客様が突然、「桜が咲いてるから、桜の下で鍋をやりたい」とおっしゃられて準備をするなんてことはよくありました。ただ、初めて来られるお客様は、まず川久の建物に興味を持たれる方が多かったので館内クルーズを最初にしていましたね。

    あとは、ホテル川久が旅館だった時代から来られているお客様の話によると旅館時代のサービスはすごかったようで、「川久で仲居さんをすれば花嫁修業はいらない」と言われていたようです。

    一般的なホテルや旅館では、仲居さんがフロントのチェックインから料理の配膳、清掃まですべてを担当します。それらを身に着けさせるために普通でしたら研修をしますが、川久では安間家に朝から来て、夜まで衣食住を共にするという指導方法だったようです。朝食をオーナーに出して、オーナーの部屋を片付けて、夕食も出してと。

    最初はオーナーが相手なので緊張しますよね。しかし、何ヵ月か経過してオーナーが「この子はもう大丈夫」となり旅館で仕事を始めた時には、何でもできる状態だったようです。オーナーで接待を学ぶのですね。そのため、川久の場合は「この子は今日から入りました」となっても、高いレベルで接客ができると言っていました。

    下田:
    ある意味、安間イズムみたいなものですね。現在も受け継がれているのでしょうか。

    岡村さん:
    それはなかなか難しいです(笑)。会社も変わりましたので。

    藪本:
    その安間イズムみたいなものは、現代においてどのように再構築すれば良いのでしょうか。

    下田:
    今でも残っている部分はありそうですけどね。

    岡村さん:
    旅館時代からの従業員も数名残っているので、そこから当時のノウハウなど受け継げるものは受け継いでいます。そのなかでも、特に精神は残していければと思っています。川久が創立して72年の間に培ってきた精神は、若いスタッフに直接お話して伝える努力を継続しています。

    下田:
    例えば、川久らしい要素が社訓で原稿化されているなど、川久オリジナルな要素は何か残っていますか。

    岡村さん:
    今はもう残っていないです。1999年にカラカミグループ(当時はカラカミ観光)に買収されましたが、カラカミグループの創設者である唐神茂夫さんと安間社長では考え方がまったく違っていて、経営の仕方も違います。どちらが良い悪いではなく、カラカミグループに代わってからは、新しいやり方にチェンジしています。

    ただ、カラカミグループの現オーナーが創業者のお孫さんである唐神耶真人(からかみやまと)さんに代わり、そのお孫さんがまた違う考えを持っています。耶真人さんは、安間社長やマダム・ホリが世界に届けたかった唯一無二の川久を再び発信したいとおっしゃっていて、新しい形での発信にも取り組んでいます。

    安間社長は30年前に、「岡村くん、このホテルは100年後には世界遺産になるからね」と言っていました。当時は冗談だと思っていたのですが、30年にわたり川久で働いてきて、必ず文化財になる建物だと確信しています。

    5.職人たちの狂気をつなぐもの

    下田:
    岡村さんは、建設中の当時の現場に立たれたことはあるのですか。

    岡村さん:
    ありますね。スタッフと一緒に床を作ったり、家具を設置したりしました。あとは、金箔を貼るために、建築当時にロビーで組まれていた足場に乗って、スタッフ60人ぐらいで2時間かけて天井を拭いたのを覚えています。その時は、天井に金箔が貼られるなんて想像もしておらず、2ヵ月して戻った時に金箔が貼られていたので驚きましたね。「100人ぐらいで金箔を貼ったのですか」と尋ねると、「3人で貼った」とのことだったのでなおさら驚きました。

    出典:川久の魅力  | 白浜温泉ホテル川久 http://www.hotel-kawakyu.jp/art/

    天井には、22.5金で1ミクロンのドイツ製金箔を約19万枚貼ってます。貼ったのはフランスのロベール・ゴアール工房です。金箔を貼ったのは夏なのですが、金箔はとてもデリケートで少しでも風が吹くと、すぐに飛んでいってしまいます。そのため、当然ながらエアコンは使えず、酷暑のなかで19万枚を2ヶ月で貼ったことはまさしく職人技だと思いました。

    下田:
    天井の金箔もそうですし、外壁のレンガにしてもなのですが、いろんな部分が気の遠くなるような手作業によって作られていますよね。そうした部分を作る職人の方々は、それぞれ思いやこだわりがあり、主張があります。言うなれば、いろいろな猛獣がいるような感じです。その職人という名の猛獣を束ねる猛獣使いは、設計者である永田先生だったのでしょうか。

    岡村さん:
    永田先生はどちらかというと猛獣の方です(笑)。実際にはもう一人、北野先生という設計士の方がいて、その方がまとめ役に近かったですね。

    職人さんの関係は、淡路島出身の左官職人である久住晃(くすみあきら)さんがまとめ役でした。職人さんを100人から200人ぐらい集めて「花咲団」というチームを組んでいたのですが、そのリーダーが久住さんでしたので。

    また、川久の建築にはゼネコンさんが入っておらず、川久からほど近い喜多工務店という地元の工務店が第一の施工業者になっており、当時はとても大変だったかと思います。

    下田:
    新聞のインタビューを拝見すると、永田先生が「常識なんて取っ払ってしまわなければいけない」とおっしゃているのですが、これは現代アートに近い感覚だと思いました。常識を取っ払いまとめ上げることは途方もない作業ですが、それを北野先生が調和させていったのですね。

    岡村さん:
    そうだと思います。久住先生がよく言っていたのは、さまざまな部門における一流のマエストロがここまで集まって話ができる機会は滅多にないということです。普通は誰かが中心となり一つのものを作り上げます。しかし、川久には複合の塊が数多く集まってきて、みんなの意見を聞きながら作り上げているとのことでした。集まって来た職人さんたちの情熱は半端ではありませんでしたね。マダム・ホリは狂気と言っていますが。

    藪本:
    その狂気をつなぐものは何だったのですか。統合するためのビジョンが必ずあるはずですよね。

    下田:
    各アーティストが、ただただ自分のエゴで作業すれば絶対にまとまらないはずです。

    岡村さん:
    そこはやはり、マダム・ホリですね。職人さんと交渉して話をしていたのはマダム・ホリでしたので。あとは設計の永田先生ですね。

    藪本:
    マダム・ホリは、どのような世界を見ているのでしょうか。どのような世界を望み、どのような世界を生きたいのか、それを知りたいです。

    岡村さん:
    マダム・ホリが十代の頃は「常識を疑え」という言葉が大好きだったようです。

    藪本:
    完全にアーティストですね(笑)。だからこそ、常識を疑うなかで、世界の素晴らしいものを統合するというコンセプトが出てきたのかもしれませんね。

    下田:
    しかし、そこでまとまらない場合の方が多いと思うのですよ。細かく話が残っていないだけで、現場では衝突もあったでしょうし。

    岡村さん:
    衝突はあったと思います。30年前にとりあえず完成はしたのですが、完全には完成したとは言えません。たとえば、本来ならマルク・ガルニエ先生というパイプオルガンの巨匠に依頼して、ロビーにパイプオルガンを作る予定でしたが、それも中止になっています。すべてが成功したわけではなかったのかもしれません。

    ただ、ロビーを見ると、いろいろな世界を作って、ここにしかないものを表現したかったのだと思います。

    6.ホテル川久は、夢びとたちの楽園

    出典:フォトギャラリー  | 白浜温泉ホテル川久 http://www.hotel-kawakyu.jp/photo/

    藪本:
    お話を聞いていると、何か仏教的な思想を感じますね。宇宙というか。

    岡村さん:
    ホテルの1階にお風呂があり、その壁には中国の仙人の生き様が書いてありますが、それは安間会長が直筆で書いたものです。

    他にも、川久には素晴らしい日本の職人さんの作品が数多く集まっています。川久ミュージアムには絵画もあるのですが、平山郁夫さんの絵画がたくさんあったので驚きました。また、横山大観さんの絵画も集められているなど、安間会長は美術的なものが好きだったようです。

    藪本:
    川久の建物にはどのようなメッセージが込められているのでしょうか。確かに、世界中の職人の技巧によって作られた建物自体は素晴らしいと思います。ただ、その本質的な意味は何か。どのような世界を見たくて、どのような世界にしたくて、どうしてこの建築物が存在しているのでしょうか。非常に抽象的な問いで恐縮なのですが、その思想性を少しでも理解したいです。

    岡村さん:
    オーナーたちが言っていたのは、「夢びとたちの楽園を作りたい」です。夢びとの定義はさまざまで、建築中でしたら、アーティストやマエストロが夢びとに該当すると思います。これには、もちろんオーナーも含まれます。建物が出来上がったあとは、私たち働いているスタッフにとっても夢の空間ですし、当然ながらお客様も夢びとになります。とにかく非日常の空間、別天地、桃源郷にしたいとおっしゃられていました。

    藪本:
    いろいろな人の夢を統合した場所、統合できる場所なのですね。

    岡村さん:
    旧経営者の意思とはまた別なのですが、今の社長は、お客様に満足して帰路についていただくだけではなく、期待を超えた感動をしてお帰りいただいて再びお越しいただきたいと言っています。大体が「満足」という言葉で終わってしまうのですが、満足ではなく感動。それも、まさかと驚く期待を超えた感動を提供したいとのことでした。その感動を提供できる場所が川久で、あとは建物だけではなく、働いているスタッフがどこまで実現できるかにかかっていると。

    藪本:
    アートには「アートをどのように定義するか」という非常に難しい問いがあるのですが、紀南アートウィークでは「感動すればアートだ」と極めて広く捉えています。そういう意味で、川久と紀南アートウィークは通じていると思いました。あとは、前提や常識を超える、そういう人が集まる場が大事なわけですね。

    岡村さん:
    私がした話はマダム・ホリ、安間社長、唐神社長、会員のお客様などからお聞きした情報です。そのため少し抽象的だったかもしれませんが、それはそれで夢があっていいかなと思っています。

    藪本:
    杉さんは何かありますか。

    杉:
    お話ありがとうございました。私は昔、海外旅行を企画する会社にいたので、海外の一流ホテルに泊まる機会がありました。そうした本物に出会う体験をすると、「この場にふさわしい自分でいたい」という気持ちが心の内から沸きあがるのを感じました。今の紀南アートウィークでは、アートが自分から遠いものではなく、身近にあるのだと伝えることが課題になっていますが、川久さんのような本物に触れる機会を増やすことが大切なのだと思いました。

    岡村さん:
    今お聞きした話とは少し違うのですが、コロナ禍でお客様の層がガラッと変わりました。特に違うのは、2021年の2月から4月にかけて学生の方が卒業旅行で来られるようになったことです。「海外に行けないので川久に来ました」と言っていました。川久を立てた職人は一流の方々で、建物は本物です。その本物を若い方に触れていただけたのはとても嬉しかったですね。

    藪本:
    岡村さんの夢は何なのですか。

    岡村さん:
    マダム・ホリなどが残してくれた川久を後世へと残していきたいです。自分で言うのもあれなのですが、素晴らしい建築物である川久に誇りを持っています。ベルサイユ宮殿で働けるかといえばなかなか働けないですし、紫禁城なども難しいですよね。私はそのような感覚で働けていて、200年、300年先に私の代わりに誰かが川久について話してくれていれば嬉しいです。世界的に見てもベルサイユ宮殿や紫禁城は歴史に残っているので、川久もそのような建物にしていかなければいけないと思っています。

    藪本:
    長時間にわたり、ありがとうございました。大変勉強になりました。

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