コラム

特別寄稿#1 『こもり即ひらけ』 - ミクロの世界に「大宇宙」を見る熊楠 –

5月28日開催のオンライン・トークセッション『紀南ケミストリー・セッション vol.2』に登壇いただく、哲学 / 文化人類学者の唐澤太輔氏より届いた特別寄稿。

生命の根源的衝動もしくは生命の息吹を見出す――。熊楠のこの探求は、アートと深くつながります。
(本文より)


南方熊楠の宇宙観についてのお話は、様々な内と外を通り抜け、セッションのテーマにも繋がります。
ぜひご覧ください。

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こもり即ひらけ

ミクロの世界に「大宇宙」を見る熊楠―

唐澤 太輔

南方熊楠は1867年、和歌山市に生まれました。幼い頃から抜群の記憶力と並外れた探究心を持ち、様々な百科事典を読んだり、動植物の収集を行ったりしていました。その後、大学予備門(現在の東京大学教養学部)へ入学します。しかし、2年目の冬、彼はそこを退学してしまいます。そして、アメリカへ留学することを決意します。最初パシフィック・ビジネス・カレッジに、その後ミシガン州立農学校へ入学します。しかし、両校とも、熊楠の「知」を満足させてくれるものではありませんでした。結局どちらも退学してしまい、それ以降、熊楠が大学や研究所に正式に入るということはありませんでした。

アメリカ遊学時の南方熊楠
© 南方熊楠顕彰館(田辺市)

そして熊楠は、フロリダやキューバでの動植物の採集旅行を経て、当時の「学問の都」イギリスはロンドンへと旅立ちます。ロンドンでは、それまで彼の研究の中心的な役割を占めていた野外での生物採集と研究から一転、民俗学や人類学などの机上での研究に集中することになります。彼のいたロンドンが、植生がさほど豊かではない場所であったことも背景にありますが、何よりも、「知の殿堂」としての大英博物館をはじめとする数多くの博物館の存在が彼を魅了したのです。その頃から彼は『ネイチャー』など海外の学術雑誌に論考を次々に発表することになります。彼が『ネイチャー』に掲載された論考の本数は、なんと51篇。これは個人としては世界最高記録です。

当時の『ネイチャー』誌
© 南方熊楠顕彰館(田辺市)

まさに水を得た魚のように研究をしていた熊楠でしたが、経済難などの理由から帰国を余儀なくされます。1900年、熊楠は帰国の途につきます。結局、彼の海外遊学は14年で幕を閉じます。帰国後は、那智山麓に宿をとり、再び動植物の採集研究に精を出すようになります。世界的大都市で学問の都のロンドンから、那智山での孤居――。一見すると、熊楠は、自分の「世界」を閉じてしまったかのように思えます。しかし、これは大きな間違いです。熊楠は、籠りつつ開いていたのです

確かに、那智山での生活はとても寂しく、孤独でもありました。しかし、一方で、彼の内面世界は限りなく広がっていったのです。例えば、瞑想において、深く自己の内側へ潜り込むことが、逆に普遍的な場へとつながるように、熊楠は、この時期、深層心理学や華厳思想に関する書籍を読むなどして、那智山の静寂の中で、深く自己と向き合っていました。そのような普遍的無意識や自他の区別を超えた世界が記された書物を読みながら、彼の自己意識はどんどんと拡張していきました。そして、もう一つ、彼を普遍的な場へと導いてくれたものがありました。それが粘菌です。熊楠は、このミクロの生物を日夜顕微鏡で覗き、そこに「生命そのもの」を見ていたのです。これは、顕微鏡を使った熊楠なりの瞑想法と言えるかもしれません。熊楠は、次のような言葉を残しています。

何となれば、大日に帰して、無尽無究の大宇宙の大宇宙のまだ大宇宙を包蔵する大宇宙を、たとえば顕微鏡一台買うてだに一生見て楽しむところ尽きず、そのごとく楽しむところ尽きざればなり。

(1903年7月18日付土宜法龍宛書簡)


  つまり、熊楠は、顕微鏡を用いて、粘菌というミクロコスモスの中に、「大宇宙の大宇宙のまだ大宇宙を包蔵する大宇宙」すなわちマクロコスモスを感じ取っていたのです。顕微鏡による粘菌の観察は、ある意味において、その内側へ籠ることを意味しますが、そのずっと「先」には、実は「大宇宙」が広がっているのです。内はそのまま外へと広がっているのです

紀伊半島の南部は、かつて「隠国」とも呼ばれていました。つまりそこは、神々がお隠れ(お籠り)になる場所とされてきました。そして、熊楠は、まさにこの「隠国」において、内面にそしてミクロの世界に籠りながら、同時に、神々の居る「大宇宙」へとつながっていたのです。熊楠は、この時期――研究者は「那智隠栖期」と呼んだりします――に、これまで蓄えてきた知をスパークさせています。その表れの一端が、いわゆる「南方マンダラ」です。その異形の図は、熊楠独自の「コスモロジー」を表しています。そして、その無数の網の目のような形状は、粘菌の変形体と呼ばれるアメーバ状の形状と非常に似ています。熊楠自身は、「南方マンダラ」とこの粘菌の形状の類似には触れてはいません。しかしながら、彼がこの時期に粘菌を非常に熱心に採集し、「顕微鏡を用いた瞑想」を行っていたことを鑑みるならば、やはり、「南方マンダラ」の構想の背景に粘菌の影響がきっとあったと思います。

「南方マンダラ」
© 南方熊楠顕彰館(田辺市)

「熊」と「楠」という動物と植物をその名にもつ彼が、粘菌という動物とも植物ともつかない(その両方でもある)生物を探求したことは、何か運命的なものを感じます。3年後、熊楠は那智山を下り、田辺町に住むようになりました。もちろん、粘菌の研究は継続していました。そして、有名な神社合祀反対運動を展開していきます。これは、日本におけるエコロジー運動の先駆けとも言われています。熊楠が、この運動を開始したきっかけにも、以下で述べるように、実は粘菌は大きく絡んでいました。

熊楠が、神社合祀反対に乗り出した最大の理由は、彼が住んでいた近所の糸田の日吉神社が合祀のために、その境内が完全に取り払われてしまったことへの憤慨であったと言われています。その神社の境内で熊楠は、非常に珍しい新種の変形菌(アオウツボホコリ)を発見しています。彼にとって、そこは、記念碑的な場所だったわけです。また彼は、神社合祀反対運動で、田辺湾に浮かぶ小島=神島の自然を、命をかけて守り抜きました。この小島の植生はマンダラのように複雑で、また珍しい動植物の宝庫でした。熊楠は、神島でもよく粘菌を採集観察していました。わずか約3ヘクタールにも満たないその島は、彼にとって無限のフィールドでした。

熊楠は、粘菌を通じ「大宇宙」を感じ取り、そこにある生命の根源を探究しました。粘菌が「大宇宙」へとつながるものであった彼にとって、自邸の庭も無限のフィールドでした。実際、熊楠はこの庭で非常に珍しい粘菌(ミナカテルラ・ロンギフィラ)を発見しています。

ミナカテルラ・ロンギフィラの図譜 ※グリエルマ・リスター筆
© 南方熊楠顕彰館(田辺市)

しかし、熊楠の主眼は、新種の粘菌を発見し、分類していくことにはありませんでした。彼は、新種の発見などは「遊戯」だとさえ言っています。熊楠の眼目は、あくまで、粘菌を通じた生命現象の複雑さの探求にあったのです。彼は、粘菌を通じて、生とは何か、死とは何かといった最も根源的な問いを追い求めていました。

生命の根源的衝動もしくは生命の息吹を見出す――。熊楠のこの探求は、アートと深くつながります。事象に深く潜り込み、そこに潜む生命の息吹を顕現させる術が、アートの役割であり可能性でもあります。熊楠は、事象に深く入り込むことを「直入」と言ったりします。対象に「直入」して、そこで感得された「何か」を汲みあげることができた時、あるいはそのような「何か」を目の前にする時、私たちは大きな悦びに包まれます。言うなれば、それは、私たちが「大宇宙」に包まれることを実感する経験でもあります。

前半生を「グローバル」に移動し続けた熊楠は、後半生は田辺町という「ローカル」からほとんど出ていません。それは、彼が「ローカル」に籠ることが、実は「グローバル」に、いや「大宇宙」にひらかれることを、粘菌を中心とした生物の内側に見出していたからに他ならないからではないでしょうか。

熊楠は、後年、昭和天皇に粘菌をはじめとした紀南の珍しい動植物について御進講を行なっています。実は昭和天皇も粘菌に非常に関心を持ち研究されていたのです。熊楠は、粘菌などの標本をキャラメルの空き箱に入れて献上しました。このような場合、普通、桐の箱を使うものです。しかし、昭和天皇は、「それでいいじゃないか」と親しみを込めておっしゃったそうです。昭和天皇と熊楠の間には、爽やかな風のような「友情」が生まれました。

当時のキャラメル箱(森永製菓)
© 南方熊楠顕彰館(田辺市)

  1941年、熊楠はその生涯を終え、今は、田辺湾に浮かぶ彼の愛した神島を眺めるように、高山寺に眠っています。

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<プロフィール>

唐澤太輔(KARASAWA, Taisuke)

1978年、兵庫県神戸市生まれ。2002年3月、慶応義塾大学文学部卒業。2012年7月、早稲田大学大学院社会科学研究科 博士後期課程修了(博士〔学術〕)。第1回南方熊楠研究奨励事業助成研究者。日本学術振興会特別研究員(DC-2〔哲学・倫理学〕)、早稲田大学社会科学総合学術院 助手、助教などを経て、現在、秋田公立美術大学美術学部アーツ&ルーツ専攻ならびに大学院複合芸術研究科准教授。専門は、哲学、文化人類学。特に、人類が築き上げてきた民俗・宗教・文化の根源的な「在り方」の探求を、知の巨人・南方熊楠(1867~1941年)の思想を通じて行っている。近年は、熊楠とアート的思考の比較考察、及び華厳思想の現代的可能性についても研究を進めている。2019年、第13回湯浅泰雄著作賞受賞。