みかんと人間の芸術人類学 (後編) 

-「みかんマンダラ」展を終えて-

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(3) 菌と共生 / 菌根ネットワーク

南方熊楠顕彰館からほど近い場所に位置する、アーティストの杵村(廣本)直子と杵村史郎が運営する古民家アトリエ「もじけハウス」。そこに隣接するSOUZOU(旧岩橋邸)では、屋内、植生豊かな庭と蔵にて、熊楠が生涯を通して見つめ続けた菌や植物などをテーマに、アジアのアーティストたちの見つめる「植物」との関わりとその多様な視点を紹介しました。

私たちが肉眼で見ることのできない菌の世界は、地中の植物の根と同じように複雑に拡がり、豊かな森をつくるためには菌の存在が欠かせないと言います。そのつながりと広がりは、ミクロ(小さな菌の世界)とマクロ(私たちの住む広い世界)の視点に置き換えることで、世界の複雑さに触れることができるのではないでしょうか。

<SOUZOU(旧岩橋邸)入り口> 写真:丸山由起
<SOUZOU(旧岩橋邸)庭と『垂直らしさ』> 写真:丸山由起

前述した狩野の『垂直らしさ(彫刻と花瓶)』は、多様な植物たちが共存するSOUZOUの庭に作品を展示され、自然環境の中で変容していくことを取り入れることで生み出される自然との関係性について目を向けさせてくれます。ロシアの政治思想家であるピョートル・クロポトキン(Pjotr Kropotkin, 1842-1921)は、シベリアでの野生生物の観察を通じて、実は、生物は、弱肉強食における競争の強者ではなく、自発的に互いを助け合う関係性を構築した種が生き残りに成功している点をあげ、競争原理から協力関係を基礎とする社会形成の原理を「相互扶助(mutual aid)」と呼称しました[森2017:161-162]。国家や権力者等の強者は、常に垂直なモニュメントを作る傾向にありますが、狩野の『垂直らしさ』は、全く異なる諸存在のほんの僅かな重なり合いを通じて、「垂直ではない、垂直的なもの」をゆっくり構築している事実を可視化しているようです。

<『ビーンズ・コスモス』と『フルーツの塔』@SOUZOU> 写真:丸山由起
<『ビーンズ・コスモス』と『フルーツの塔』@SOUZOU> 写真:丸山由起

これまで述べてきた廣瀬氏は、豆やレモンなどの食材やありふれた日常的な事象に注目し、人間が持つ原初的感覚や世界の豊かさを再認識するような作品を発表しています。

『ビーンズ・コスモス(Beans Cosmos)』では、豆、金や植物など「価値」の異なる様々なものが閉じ込められ、宇宙のような世界が構成されています。まさにコッチャが述べるように、植物は、人間、動物、土壌等に対して、植物が生み出す大気を通じて、生命体は流体的な世界に「浸し、浸され合う」関係にあり、相互内在している[コッチャ2019:参照]ことが直感的に理解できる作品だと思います。そして、『フルーツの塔(Fruit Tower)』は、『官能の庭』と同様に、人間以外のモノのために家を作る〈家〉シリーズとして、植物と人間の視点の交換を与えるような試みとなっています。SOUZOUでも、『フルーツの塔』のみかんを食べることができ、みかんによる純粋贈与体験が得られるようにしました。

タイ出身のビー・タケム・パッタノパス(Be Takerng Pattanopas、1965-)の『うちとそと #3(within/without #3)』は、内なる空間と外なる空間という二つの観念から生じています。

ビーは、体内に腫瘍を抱えており、彫刻や絵画など多様なメディアを用いて、人体の内部の世界と宇宙の繋がりを考察するような作品を多く制作しています。コロナ禍において制作された本作は、細胞、粘菌や根の集合体のようでもあり、また無数の星々で構成される宇宙のようにも見えます。身体の内部を想像し、細胞や原子に辿り着く先のミクロコスモスは、まさに熊楠が思考したような植物や他の生物、そして、宇宙との共通点を見出す思考を喚起するようです。

<『うちとそと #3( within/without #3)』@SOUZOU> 写真:丸山由起

ベトナム出身のクィン・ドン(Quynh Dong、1982-) は、パフォーマンスの要素を用いて映像作品を制作しています。

『晩秋(Late Autumn)』は、ひとりの男の人生を春夏秋冬で表したキム・ギドク(Kim Ki-duk、1960-2020)監督の映画『春夏秋冬そして春(2003)』からインスピレーションを受け、秋に落ちる葉を複数の女性の身体を通して表現しています。空間や時間を感じさせない世界で、人も植物も輪廻転生のような大きな循環のなかにあることを想起させます。また、前述したインゴルドの「生きていること(諸存在の動きの中でその素材として、「はじまり」も「おわり」もなく、その流動に参加すること)」のイメージを体感できます。具体的には、植物の果実が実る際に、私たちは、日本語で「実が『成る』」という言葉を使います。すなわち、人間も植物と同様に、常に「実が『なる』」ように、生成され続けているものとして捉えられるのではないでしょうか。

<『晩秋』の展示風景@SOUZOU> 写真:丸山由起

タイ出身のピラヤット・ピヤポンウィワット(Piyarat Piyapongwiwat、 1977 -)は、グローバル化された経済と社会環境問題の状況と意味を明らかにし、疑問を呈する方法として、ドキュメンテーションに重点を置き、作品を制作しています。『地衣類(Lichen)』では、菌類の仲間が藻類を取り込み、一体として生きる地衣類は、南極のような過酷な地でも存在します。そのような地衣類や粘菌の存在を捉え直すために、パートナーとともに、点描で地衣類を描き出しました。共生関係の中にこそ、根源的な力強い生命の形があるとアーティストは示しているのでしょうか。

『絶滅種(Extinct Species)』では、地球上から絶滅した10種類の植物をモチーフにし、アニメーション形式で、絶滅した植物が、繰り返し描かれ出されます。これもインゴルドの「生きていること」と響き合います。例えば、インゴルドが「絶えざる誕生」といい、「生命の網へと束ねる線に沿って、成長し動く有機体は、内的な設計の外部への表出として再構成されることになる[インゴルド2019:170]」というように、既に植物は絶滅し、消滅したとしても、繰り返される線の描写は、輪廻のように、永遠の生成を喚起します。語弊があるかもしれませんが、自身の死骸から復活することが可能な植物[ヴュルガ2021:85参照]にとって、絶滅することは、もしかしたら大きな問題ではないのかもしれません。
現代の先端的なエコロジー論とは異なる、熊楠が思考したような根源的なエコロジー論を直感的に感じずにはいれませんでした。つまり、流行りの「植物権利論」等の先端的な議論ではなく、全く異なる存在として、植物を尊重し、他の生命体との混合や相互浸透等、植物が普段行っている他の生命体との密接錯雑としたとの多元的な共存関係を想像し、そこから人間の持つ「植物性」を得ることが重要なのだと思います。

<『絶滅種』の展示風景@SOUZOU> 写真:丸山由起
<『地衣類』の展示風景@SOUZOU> 写真:丸山由起

SOUZOUの蔵では、あわ屋(AWAYA)の『みかんと人のサウンドトーラス(Sound Torus of Mandarins and People)』が展示されました。

あわ屋は、和歌山県中辺路に居住する福島正知と奥野裕美子によるサウンドアートユニットであり、日常に潜む宇宙の神秘や生命の不思議を独特の音世界で表現したサウンドアートを制作しています。人間のような聴覚等の感覚器官を持たない植物たちは、どのような音を聞いているのでしょうか。本作は、柑橘畑でフィールドレコーディングした音が柑橘類の枝などを介して再生されています。

解剖学者の三木成夫(1925-1987)が「植物のからだは、動物の腸管を引き抜いて裏返しにしたものだ。根毛は露出した腸内の絨毛となって、大気と大地にからだを開放して、完全に交流しあう」と述べている通り[三木1986:156]、人間の身体と植物の根は繋がり合っています。そして、アメリカの地質学者であるデイビット・モンゴメリー(David R. Montgomery)も、「植物の根と人間の大腸は同じ機能を持っており、ここには境界はない」と述べています[モンゴメリー2016:309、310]。その意味で、人間は内向きに密閉されており、植物が外部に開いている違いはあるものの「植物は、生物上の身体の一部」であり、人間は「腸に根を張る移動型植物[藤原2022:51]」として捉えられる可能性があるのではないでしょうか。

これは、人類学者の石倉敏明が述べる「外臓」の概念と接合します。食を通じて、身体における内臓は、口と肛門を通じて一つのチューブのように開かれ、植物の根を通じて、体の外の世界と地続きに繋がっており、人間の内臓的な体験が皮膚を超えて、外の環境と繋がるときに「外臓」という概念を見出だすことができます[石倉、唐澤2020:参照]。

<『みかんと人のサウンドトーラス』展示風景@SOUZOU> 写真:下田学
<『みかんと人のサウンドトーラス』展示風景@SOUZOU> 写真:下田学

展示写真の通り、みかんの木の枝は、地上に現れた根のように吊るされています。SOUZOUの蔵に入ると、まさに「根の国」に入り込んだと錯覚します。アーティストの福島は、石倉の「外蔵」という概念に影響を受けたと述べていますが、枝に耳を当てると、身体的な「内蔵」と「外蔵」を越えて、みかんが聞いている(感じている)感覚世界に入り込み、自身の中にある、隠された「植物性」を体感することが可能だったのではないでしょうか。

ベトナム出身のアーティスト・トゥアン・マミ(Tuan Mami、1981-)は、ハノイを拠点にするニャサン・コレクティヴ(Nha San Collective、「ニャサン」はモン族の言葉で「家」を意味します。)の創設者であり、私たちがどのように「人間」として移動を繰り返しているかについて観察を行っています。近年、マミは、ベトナムと台湾、ドイツ等の世界各地に住んでいるベトナム人移民に関心を向けています。『ベトナム移民の庭(No. 2)(Vietnamese Immigrating Garden No. 2)』では、台湾に住むベトナム人移民と現在では持ち込むことが困難になったベトナム固有の植物との関係について調査しています。植物を育てることが、食べることだけではなく、知恵や文化を伝承し、形成されるコミュニティーが移住した地での生活を支えています。

この点、コッチャは、哲学的に「移住すること」の意味を、生命体がある場所にいることが、既に「住むこと」と「住みつかれること」の重なり合いであると説明しています。つまり、生命体は常に移動し続けており、生きているものは、別の生きものの一時的な住まいになる可能性があるというのです。また、全ての生き物は、他の生き物の一時的な住まいであり、「乗り物」でもある[コッチャ2022:209]といいます。まさにドクメンタで展示されていた『ベトナム移民の庭(Vietnamese Immigrating Garden No.2、2022)』は、まさに植物が私達の「家」でもあり、乗り物でもあり、ときには、人間が植物の「家」や「乗り物」であることもあり得えることを伝えているように思いました。

<『ベトナム移民の庭』の展示風景@SOUZOU>  写真:筆者撮影
<ドクメンタの会場で育つベトナムの柑橘>  写真:筆者撮影

また、マミは、海外にベトナムの植物や野菜を持ち込むこと自体が違法となっており、ベトナム難民や移民達は、これらの懐かしい食に触れることもままならないといいます。人類の歴史において、人間、動物、そして植物はともに相互に支え合いながら移動してきたのに、なぜ現代においては、それが許されないのでしょうか。植民地時代においては、西欧世界は、サトウキビ等の植物を輸出入、そして奴隷貿易によって、莫大な富を得てきました。また、過去の植民地支配やベトナム戦争によって、移動と離散を望んだわけでもないベトナムの人々は、世界の周縁に追いやられてしまいました。そんな中で、自分達のルーツ(根)のある「食べもの」になぜアクセスできないのでしょうか、今の制度や規律は本当に正しいのでしょうか、ということをマミは静かに伝えているように思えてなりません。 

そして、前述した通り、「根を持つこと」とは、人間の魂のもっとも重要な欲求です。私達は、根を切り離す「根こぎの世界」を越えて、どのように根を張り耕していけばよいのでしょうか。フランス人キュレーターのニコラ・ブリオー(Nicolas Bourriaud, 1965-)は、「ラディカント」な芸術概念を提唱しています。「ラディカント(Radicant)」とは、熊楠の思想のように、単に主根や側根等の先端を伸ばすことを重要視せず、前進するにつれて、ネットワーク上に側根やひげ根を伸ばす有機的な運動を意味しています。つまり、ラディカントであるということは、自らの根を異質な文脈やフォーマットの中で、再度、根を伸ばしていこうとする動きです。例えば、人間でいえば、移民者、亡命者、都市の放浪者であり、植物でいえば、アイビーのように主根に固執せずに、みずからが触れる表面からあらゆる方向に向かって、根を広げ、ときには根が切断されたとしても、新たに根を張り直すような動き[ブリオー2022:70、71]を意味しています。

現代の制度や規律の問題に直面しながらも、それを越えて、「移動しながら耕し続ける」ベトナム移民の人々と植物から力をもらえるように思います。それと同時に、注目すべきは、柑橘農家も日々「根を横に伸ばす」作業を行っている点です。単に根を地下に向けて伸ばすだけでは、いわゆる「美味しいみかん」は生まれないことも非常に示唆に富んだ事実ではないでしょうか。

この点を踏まえ、今後、マミには、紀南/熊野の地に来てもらい、柑橘農家やベトナム移民と対話を重ねながら、「コモンズ農園」で植物を育てながら、新たな表現を生み出してもらいたいと思っています。岡本太郎が「生活的で、非芸術なものに賭けるモメント」といったように、それが非芸術だといわれたとしても、生活に直結した植物や柑橘や、そしてその根を育てながら、「みかんマンダラ」のような「呪術(芸術)」を掘り起こしたいと思っています。

その他、SOUZOUでは、アーティストの杵村直子による、絵画ワークショップ 「みなかたる」を開催いたしました。地域の子ども達を中心に、南方熊楠が残した細密な標本画を手本に、SOUZOUの庭で採取した植物の描写に加えて、(時には架空の)説明文や注釈などの言葉をまぜこぜにする絵画体験を提供しました。柑橘の汁で濡らし炙った紙を使うことで、時の移ろいも超えたような独自の熊楠的世界を描き出し、生成変化する植物の全体像を捉え直そうとしました。

<ワークショップ「みなかたる」の様子> 写真:丸山由起
<ワークショップ「みなかたる」の様子> 写真:丸山由起

さらには、和歌山での探究型バイリンガル小・中学校設立を目指している「ワカヤマスコラボ」と協働し、秋津野ガルテンと柏木農園にて、親子ワークショップ「みかん教室」を開催しました。ワカヤマスコラボは、「探究学習」、「食の学び」、「自然・文化体験」、「グローバルとローカルの視野」などをキーワードに、和歌山の自然・郷土と風土を探究・実践・協働的に設計しています。「みかん教室」では、みかん農園のフィールドに訪問し、親子で共に学び、探究を深めるワークショップを実施しました。当日発表する探究の主題を基礎に、近隣のみかん畑でフィールドワークを行ったあと、大人と子どもに分かれてそれぞれのチームでマインドマップを活用したワークショップを実施しました。最後にお互いの研究結果を発表し合い、より深い学びを共有しようと試みました。

<「みかん教室の様子」@柏木農園>

3 「原理を越えたみかん」はどこにあるのか

 最後に、「原理を超えるみかん」を生み出すには、当然ながら時間がかかると思っています。具体的には、「みかん」の背後にある植物性、根のネットワーク、土壌や神話等、不可視なものを含めた根源的な対話と表現を積み重ねるしかないと思っています。今回の「みかんマンダラ」展をきっかけとして、アートのみならず、神話、哲学、⼈類学、植物学、生態学、デザインなどの他分野との接合点を探り、先人達がこの熊野の地で⾒出したような宇宙的な広がりを持つ、新たな集合知=マンダラを「みかん」の中に見出していきたいと思います。

そのためには現代アーティストの力が必要です。冒頭のコッチャの言葉の通り、「現代アート」とは、「規律によって規定されず、規律を貫き、それを揺さぶることにより、社会自体が思考したり、想像したりできないことを可視化しながら、文化や社会が現状とは異なるものになっていくことを可能にする運動」なのだと思います。これは主義や思想ではなく、具体的な運動であることが重要なのだと思います。廣瀬氏の絨毯のような「みかんマンダラ」は、きっとすべての生命体が繋がり、集まる場所を模索する旅なのだと思います。まさに熊楠がいう萃点(すいてん)を見つけるようなことではないでしょうか。「萃点」とは、「集まる地点」という意味で、さまざまな物ごとの「ことわり」が通過し、交差する地点をいいます。それが中沢いう「宗教から経済、科学から芸術にいたるまでの広大な領域でおこなっている心の活動を、一貫した視点から再編集しなおしてみること」であり、既存の原理を超えることに繋がってくるのだと思います。

みかんコレクティヴは、みかんと芸術人類学を踏まえ、「ひらくこと/籠もること」、「実ること/根付くこと」等の矛盾を混在させながら、それを越えていく具体的な芸術運動なのです。さて、一緒にじっくり時間をかけながら、「原理を越えたみかん」を模索していこうではありませんか。

以 上


<参照文献>

  • C.G. ユング(著)、林道義(訳)、『個性化とマンダラ』みすず書房、1991年
  • エマヌエーレ・コッチャ(著)、山内志朗(訳)、『植物の生の哲学:混合の形而上学』、勁草書房、2019年
  • エマヌエーレ・コッチャ(著)、松葉類、宇佐美達朗(訳)、『メタモルフォーゼの哲学』、勁草書房、2022年
  • クラリッサ・ハイマン(著)、大間知知子(訳)、『オレンジの歴史』、原書房、2016年
  • シモーヌ・ヴェイユ(著)、冨原眞弓(訳)、『根をもつこと(上)』、岩波文庫、2010
  • ステファノ・マンクーゾ、アレッサンドラ・ヴィオラ(著)、久保耕司(訳)、『植物は<知性>を持っている』、NHK出版、2015年
  • ティム・インゴルド(著)、柴田崇、野中哲史、佐古仁志、原島大輔、青山慶、柳澤田実(訳)、『生きていること 動く、知る、記述する』、左右社、2021年
  • デイビット・モンゴメリー(著)、片岡夏実(訳)、『土と内臓 微生物がつくる世界』、築地書館、2016年
  • ニコラ・ブリオー(著)、武田宙也(訳)、『ラディカント グローバリゼーションの美学に向けて』、フィルムアート社、2022年
  • ピエール・ラスロー(著)、寺町朋子(訳)、『柑橘類の文化誌』、一灯舎、2010年
  • フロランス・ヴュルガ(著)、田中裕子(訳)『そもそも植物とは何か』、河出書房、2021年
  • 安藤礼二(著)、『縄文論』、作品社、2022年
  • 奥野克巳、山口未花子、近藤祉秋(編)、『人と動物の人類学』、春風社、2012年
  • 岡本太郎(著)、『神秘日本』、角川ソフィア文庫、2015年
  • 紀南アートウィーク ケミストリーセッション Vol.2 「籠もるとひらく―知の巨人・南方熊楠と現代アート―」、11月20日閲覧(https://kinan-art.jp/info/930/
  • 三木成夫(著)、『胎児の世界』、中公新書、1983年
  • 山本哲士(著)、『古事記と国つ神論:日本国の初まりと場所神話』、EHESC、2022年
  • 森元斎(著)、『アナキズム入門』、筑摩書房、2017年
  • 頼富本宏(著)、『密教とマンダラ』、講談社学術文庫、2014年
  • 石倉敏明、唐澤太輔「外臓と共異体の人類学」、2020年、EKRITSウェブサイト、11月20日閲覧(https://ekrits.jp/2020/12/3980/
  • 中沢新一、「ユングと曼荼羅」、日本ユング心理学会(編)、2010年
  • 中沢新一、小澤實(著)、『俳句の海に潜る』、角川書店、2016年
  • 中沢新一(著)、『芸術人類学』、みすず書房、2006年
  • 中沢新一(著)、『純粋な自然の贈与』、せりか書房、1996年
  • 中沢新一(著)、『対称性人類学』、講談社、2008年
  • 中沢新一(著)、『東方的』、講談社学術文庫、2012年
  • 藤原辰史(著)、『植物考』、生きのびるブックス、2022年
  • 藪本雄登、「みかんコレクティヴ:内なるみかん ひらくオレンジ」、2022年11月20日閲覧(https://kinan-art.jp/info/5785/
  • 藪本雄登、「みかん神話-紀伊半島と橘の関係を思考する」、11月20日閲覧(https://kinan-art.jp/info/6962/
  • 藪本雄登、「紀南という“場所” -モダニズムとアニミズム-」、紀南アートウィーク2021 公式カタログ、2022年