特別トークセッション「土と根の記憶 カンボジアと紀南/熊野から」テキストアーカイブ

2022年10月7日(金)、みかんマンダラ展の関連イベントとして開催した特別トークセッション『土と根の記憶 カンボジアと紀南/熊野から』を文字起こしをした テキストアーカイブです。

日 時:2022年10月7日(金) 18:00~
会 場:愛和荘
参加費:無料
ゲスト:クヴァイ・サムナン氏(カンボジアの現代アーティスト)、石倉 敏明氏(秋田公立美術大学美術学部 准教授)
モデレーター:藪本 雄登(紀南アートウィーク 実行委員長/総合プロデューサー)
通訳:森山 歩美

ゲストスピーカー

クヴァイ・サムナン(Khvay Samnang)
1982年カンボジア・スバイリエン生まれ。プノンペン在住。王立芸術大学絵画科を卒業。ユーモラスで象徴的なジェスチャーを使い、伝統的文化儀式、そしてまた歴史や現在の出来事について、新しい視点を提示する。Sa Sa Art Projects(2010年〜)の創立メンバーとして運営に携わる。近年の主な展示に、「バンコク・アート・ビエンナーレ」(2020年、バンコク、タイ)、個展「Capsule10: Khvay Samnang」(2019年、ハウス・デア・クンスト、ドイツ)、「ドクメンタ14」(2017年、EMST、アテネ & Ottoneum、ドイツ)等がある。

石倉 敏明
秋田公立美術大学美術学部 准教授、芸術人類学者、神話学者  神話や宗教を専門とし、アーティストとの協働制作を行うなど、人類学と現代芸術を結ぶ独自の活動を展開している。第58回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展において、日本館代表作家として、美術家の下道基行、作曲家の安野太郎、建築家の能作文徳らと協働で『Cosmo-Eggs|宇宙の卵』を発表。共著に『Lexicon 現代人類学』(奥野克巳共編、以文社、2018年)、『動物のことば 根源的暴力を超えて』(鴻池朋子共著、羽鳥書店、2016年)など。

 

特別トークセッション
土と根の記憶 カンボジアと紀南/熊野から

目次

1.はじめに
2.石倉先生のご紹介
3.サムナンさんのご紹介
4.サムナンさんの作品について
5.カンボジアと紀南について
6.「土と根の記憶」日本の神について

1.はじめに

(撮影:下田学)

藪本:
本日はお忙しいところお集まりいただきまして、誠にありがとうございます。「紀南アートウィーク」実行委員長の藪本です。

今日は、アジアを代表するカンボジア人アーティストであるクゥワイ・サムナンさんを、カンボジアのプノンペンからお招きしています。

サムナンさんは、「ドクメンタ」*といわれる5年に1度の芸術祭のオリンピックに「ドクメンタ14」「ドクメンタ15」の2回連続で出場しているという、アジアで非常に注目されているアーティストの一人です。

*ドクメンタ・・・ドイツのヘッセン州カッセル市で開催される国際美術展。(中略)現在ではベネチア・ビエンナーレとともに、世界の現代美術の最新の動向を紹介するもっとも重要な国際展となっている。参照:コトバンク

もう一方のゲストスピーカーは、秋田からお越しいただきました石倉敏明先生です。

私の大学の博士課程の主査の先生です。「野生めぐり」*という本に代表される通り、日本やアジア、インドなどでフィールドワークをされながら、神話学、人類学などの調査・研究をされています。

*『野生めぐり』:石倉 敏明 (著)田附 勝(写真) 淡交社  2015年10月発行(Amazon)

本日は「紀南とカンボジア」や「土と根」に関するお話ができればと思っています。

それでは石倉先生から自己紹介をお願いします。

2.石倉先生のご紹介

(撮影:下田学)

石倉:
石倉と申します。今ご紹介いただいた通り、秋田から着いたばかりです。

去年見せていただいた「紀南アートウィーク」では、とても強い衝撃を受けました。その理由のひとつは、地元に根差したプロジェクトが、民間の中で始まっているということ。もうひとつは、紀南の土地そのものの魅力が、印象深かったということです。秋田と紀南を比べると、環境がだいぶ違います。気温も10度くらいの差があります。でも、共通する点が見えてきます。

私は普段、秋田公立美術大学で芸術人類学や神話学を教えていますが、暇があれば田舎のお祭りを見に行ったり、おじいちゃん、おばあちゃんとお話をしたりしています。子どもたちと釣りをしたりもするのですが、周りにある水や空気、山の中に生えている木々など、「人間以外のものとの距離感がすごく近い」というところは、東北と紀南は似ていると思います。

今回のアートウィークの展示を見させてもらって感じたのは、それらがより鋭く掘り下げられている、ということです。「人間と菌類」や「人間とみかん」という、誰も思いつかないような切り口で「アート」というものが体験できる。特に五感を通じて、みかんの世界に入っていくというのに、とても衝撃を受けました。

3.サムナンさんのご紹介

(撮影:下田学)

サムナン:
こんにちは!(日本語で)

今回「紀南アートウィーク」で紀南に来れたことを、とても光栄に思っています。特に雄登さん(藪本)、スタッフの方々、石倉先生と出会えて幸せです。

今回の展覧会をまわってみて、カンボジアと東南アジア、あるいはこの紀南地域と東京との共通点や、同じまちの中でさえも違う風景が見えてきた、というのに気付きました。

「みかんコレクティブ」も楽しませてもらいました。みかんには「酸っぱさ」や「甘さ」や「苦さ」などたくさんの味があって多様ですし、紀南には、みかんに対する哲学として、形だけではなくて、地元のコミュニティとのつながりがある、というのを知りました。

今日は、たくさんの質問に答えていきたいと思います。よろしくお願いします。

4.サムナンさんの作品について

(撮影:下田学)

藪本:
サムナンさんの作品には、仮面をかぶる作品、土をかぶる作品、舞踏の作品など、いろいろな表現方法があります。石倉先生からこれらの作品について、民族学、人類学、神話学などの観点から、サムナンさんにご質問をいただければと思います。

石倉:
今日はサムナンさんの「無題(Untitled)」という作品を会場に流していましたが、この作品についてお伺いします。

これは、カンボジアで撮影されたと思われるのですが、背景に水が見えていたり、シーンが次々に移りかわっていく中で、砂の入ったバケツを頭からかぶっている、というパフォーマンスを続けている作品です。この「砂」についてお話をお聞きしたいです。

無題, 2011 / Untitled, 2011 (画像:アーティスト提供)
無題, 2011 / Untitled, 2011 (画像:アーティスト提供)
Rubber Man, 2014 (画像:アーティスト提供)

サムナン:
「砂」というのは、地面や川などにある自然のものですが、それと同時に政治的なものにもなりえます。カンボジアでは、「砂」によって「人々が追い出される」ということがあるのです。その政治的な意味合いを持つ抽象的なものとして「砂」を使っています。

藪本:
カンボジアには、「経済土地コンセッション」(Economic Land Concession)という制度があります。外国の投資家たちが土地を長期間借りられる、という制度なのですが、そこに住んでいた人たちが追い出されてしまう、という問題があります。

サムナン:
たとえば、湖だったところに砂をどんどんかぶせて湖がなくなってしまう、あるいは、シンガポールに砂を持っていかれて、埋め立て地として使われる、といったように、砂が行ったり来たりしている状況、というのを政治的に抵抗している様子を表現しています。

湖というのは、基本的には誰も住んでいないのですが、政治的に弱い人たちが集まってきている場所です。そういった社会のへりの人たちを、政府的に抑圧している、という状況があります。

石倉:
ありがとうございます。映像にある後ろの背景をみると、ダイナミックに変わっているのがわかります。例えば、ボートピープルのような人々の傾いている家と、ビルが立ち並んでいるようなコントラストな背景で、人間の活動が大きく動いている世界が感じられます。

無題, 2011 / Untitled, 2011 

作品の中にある、半分裸の人物の身体がとても印象的です。この身体を見たときに、私は日本の現代の舞踏家のことを思い出しました。日本の舞踏ダンサーたちも、古い伝統や日本の歴史に密着しながら、すごく大きな変化の中で自分の表現を作り出しています。とても古い伝統を踏まえて、新しい表現を作っているのです。シンプルで強い身体を前面に出す表現に関して、意識していることはありますか。

画像:アーティスト提供

サムナン:
正直、当時はよくわかっていませんでした。

ただ、日本のプロジェクトに参加した時に、日本語は話せないので、身体を使うしかなかったんです。道が分からない時は、「まっすぐ!」とか「右!」など、簡単な身体表現で伝えました。

このように、「身体を使う」というコミュニケーションの伝達方法は、シンプルに相手に思いを伝えることができるのです。そういう意味でも、「身体を使う」というのは、重要だと気付きました。コミュニケーションでの人とのやり取りで、そのような儀礼的な空間を作ることができるのではないでしょうか。

地域の土地に行ってリサーチする時にも、身体を使いながら、地域のコミュニティに参加してプロジェクトをすすめています。私はそのコミュニティの中に住んでいるわけではないけれども、どこかでつながっているのです。結局は家族と同じような感覚です。そして、私はそれをアートにしています。

石倉:
サムナンさんの作品は、現在のカンボジアを知る、鏡のような面をもっていると感じます。今、どういった社会変化が起こっているのか、自然環境はどう変わっているのか、同時にこれはカンボジアのことだけではなくて、世界中で起こっていることなんだ、と思い起こさせてくれます。

だからサムナンさんの作品は、サムナンさんが会ったことも、想像したこともないような環境の中で生きている人たちにも、通じる言語を持っているのかもしれないと感じます。

日本のいろいろな所でサムナンさんの作品が見られていますが、サムナンさんはそのことについてどのように感じますか。

画像:アーティスト提供

サムナン:
私は言いたいことを言っているので、オーディエンス(情報を受け取る人)がどう感じているかは、まったくわかりません。私のアートは、きれいな風景の作品ではありません。今問題が起きているところや、これから起きようとしている問題提起について扱っていることが多くあります。いろいろなところで映像をとっていて、それが地図のようにつながっているのです。

石倉:
サムナンさんの作品を見ると、まさにひとつの地図のようなところがあると思います。それは、身体についての地図かもしれないし、自然と人間の関係についての地図かもしれないですね。

サムナンさんの作品を見ていると、すごく懐かしさを感じます。なぜかというと、アジアのさまざまな土地に伝承された、古いお祭りを思い起こさせてくれるからです。ですが、同時に見たこともないような、まったく新しいイメージも立ち上がってきます。

とても「古く」、でも「新しい」という作品が、どうしてできるのでしょうか?

Preah Kunlong (The way of the spirit), 2016-2017 映像作品 (画像:アーティスト提供)

サムナン:
直感的に作っているのでわかりません(笑)。リサーチをしながら、人類共通の普遍的なことを単純にイメージとして提示することで、オーディエンスの方の共通の起源やイメージなど、無意識なものとつながっているのではないでしょうか。

画像:アーティスト提供

石倉:
私たちがよく知っている動物のようで、少し違うような獣の頭が出てくる作品が、とても印象的です。これは世界中の、旧石器時代などのとても古い時代から、人類は仮面をつけてお祭りをしているという観点からも、とても普遍的なものだと思います。

とてもおもしろいのは、植物のツルをつかって動物を作っている、ということです。植物から動物へとトランスフォームしていくイメージがとても印象的です。その表現は植物・動物にあたかも同じ生命が流れているように感じられます。

サムナン:
カンボジアで唯一の滝に、ダムを作ろうという計画が立ち上がったことがありました。とても大きい滝です。そこのジャングルには、1000人くらいの小数民族が住んでいました。この森を見てください。ここにダムを作ろうとしたのです。

Preah Kunlong (The way of the spirit), 2016-2017 映像作品 (画像:アーティスト提供)

そのコミュニティに初めて入った時、そこの人々は私にご飯をくれませんでした。なぜだかわかりますか?そのダムを開発をしようとしていたのが、中国人で、私の顔が中国人に見えたからです。私達のはたらきかけがあって、このダムの建設の中止が決まりました。今はとても感謝されています。

その部族にとって大切なことは「自然の中で生きている」ということです。そこでは、それぞれの家族がそれぞれの動物を信仰しています。先祖たちが山で道に迷った時に、鳥の鳴き声や動物の足跡に導かれて水を見つけることができた、ということがあったそうです。

山から帰って先祖たちがその話を子どもたちに伝え、動物を信仰するようになったそうです。私にとっても、その「自然の中で生きる」という哲学は、とても大切なものです。

この作品は、アーティストさんにこのような私の思いを説明して、そのコミュニティに一緒に行き、ダンスのパフォーマンスを作りました。

とても難しかったのですが、パフォーマーに、滝のところまで行ってもらいました。感覚を経験として出してもらうために、野生のワニの前に行ってもらったり、クジャクの前でダンスをしたりしてもらいました。象のうんちがあったら、そこで象のまねをしてみたり、動物がおしっこをして逃げたら、その真似をしてもらったりしました。

そして、ダンスの中では、動物でもなく人間でもない動きをしてくれと頼みました。そして、それを編集したものがこちらのアート作品です。

(撮影:下田学)

石倉:
今の話を聞いてとても感動しました。

今の現代人は、動物を肉にして食べたり、毛や皮を使って服や靴、カバンを作ったりして、人間がコントロールして支配しようとしています。でも動物に水のありかを教えてもらったり、動物の動きを学んだりする、ということがとても印象的でした。

そこで思い出したのですが、人類にとって、ホモサピエンスの一番古い彫刻が、顔がライオンで身体が人間だという、「ライオンマン*というものです。3万年ほど前の洞窟から見つかっています。

*ライオンマン・・・ドイツで発見された後期旧石器時代の象牙彫刻。参照:Wikipedia

なぜ旧石器時代の人は、「動物の頭で人間の体」の彫刻を作ったのか、ということを私は不思議に思っていました。サムナンさんの作品を見ると、とても古い時代の人たちが感じた「人間と動物のどちらでもないもの」「どちらでもあるもの」「人間を超えていくもの」などの想像力がかきたてられてきますね。「古くて新しい」というサムナンさんのアートの秘密が少しわかったような気がします。

けれども、それは私たちが考えているような、ヨーロッパで始まった「絵画」や「彫刻」というものよりも、少し広い解釈があるような気がします。

たとえば美術大学では、授業でデッサンを行います。それはギリシャやローマの神様の顔を描くデッサンです。キリスト教や、ギリシャ、ローマの文化について学ぶことはとても豊かなもので、大事なことなのですが、実はアートはもっと広いんだ、ということをサムナンさんの作品が教えてくれます。

ヨーロッパ以外のところからも、何かを学ぶことはとても大事だと思うのですが、サムナンさんはどのように思いますか。

サムナン:
「学ぶ」ということは難しいです。でも、学ぶことで、私達のあり方といった「哲学」を考えることができます。なんといっていいかわからないですが、「学ぶことが学び(Learning is Learning)」だと感じます。

石倉:
それはとても大事なことだと思います。今の大学では「コピー」が多いのですよ。「土地に生きている人」や「動物」や「植物」からも何かを学べるとしたら、いたるところに学び舎がある、ということが言えますね。

サムナン:
例えば、私が日本でしてきたような「ボディランゲージ」や「心と心がつながること」で、学ぶことは多くあります。

私が信じていることは、「すべては自然につながっている」ということです。一歩一歩歩くごとに自然と触れ合っているのです。すべては自然から学べます。自然はすべての教育の源です。

石倉:
自然についての考え方がとても印象的です。同時に自然を大切にする人々のネットワークも、柔軟で強いと思います。今、東南アジアのアーティストたちがもっている考え方が、大きなインパクトを持っていると感じます。

たとえば、「自然との関係」や「人とコミュニティの作り方」などの考え方ですね。サ・サ・アートプロジェクト(Sa Sa Art Projectsのようなコミュニティもとても柔軟で強いと思うのですが、同時代の他のアーティストとのつながりについては、どのように考えていますか。

*サ・サ・アートプロジェクト・・・サムナンさんが共同創設者として、カンボジアの現代アートの実践に特化したアーティスト達が運営するスペースです。参考:アウラ現代藝術振興財団ホームページ

サムナン:
すべての関係性というのは、日常の関係からできています。日本やカンボジアなど、政治的なものは違うけれども、何らかの形でつながることができると思います。

(撮影:下田学)

石倉:
ありがとうございます。私が紀南アートウィークを訪れて、田辺や白浜で「ホッと」できるのは、サムナンさんたちが持っているような感覚に近いものを感じるからです。

たとえば、紀南のホテルに泊まったら、藪本さんの野球部の先輩がいて、とてもよくしてくれるといった関係性もそうです。展覧会をつくるチームを見てみても、町の人もいれば、アートの専門家もいて、それらが一緒になって同じ場を作っているというのは、とても刺激的だと思います。

サムナンさんにとって紀南はどういった感覚がありますか。

サムナン:
ここにはたくさんの友達がいるように思います。また、この紀南はとても安全で、暖かい場所ではないでしょうか。でも、一番私が重要にしているのは、自然と政治のあり方ですが、紀南には、自然と政治の関係を見直すヒントがありそうな場所だと感じます。

5.カンボジアと紀南について

藪本:
私は、カンボジアと紀南とは近いように感じます。

サムナンさんの「ポピル( Popil)」という作品を見たときに、なんとなく熊野の火祭り「お燈まつり*に似ていると感じました。

*お燈まつり・・・和歌山県指定無形民俗文化財に指定されている、世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部である神倉神社で毎年2月6日に行われる勇壮な火祭りです。白装束に荒縄を締めた約2000人の「上り子(のぼりこ)」と呼ばれる男子が御神火を移した松明を持ち、神倉山の山頂から538段の急峻な石段を駆け下ります。
参照:南紀・熊野お祭りガイド

ポピル / Popil

お燈まつりというのは、竜を作る火祭りです。火を持った白い服を着た男性が、母体と思われる石段を駆け下りる祭りです。この「ポピル」という作品も、男性が白い蝋燭を持って、火をつけて舞い踊ります。

「ポピル」は、輪廻転生を表した作品です。蝋燭というのが男根で、舞い踊る動きというのが、子宮をあらわすものとつながってます。「お燈まつり」での白装束の男性は「精子」を、赤い火というのが女性的な物を示しているのだと理解しているので、そこに類似点を感じます。そういう意味では、クメール文化*と熊野の古層の文化はどこかでつながっているのではないかと思うのです。

*クメール (Khmer) ・・・カンボジアの主要民族。タイ、ベトナム南部にも分布する。言語上はモン族とともに、モン‐クメール語族を構成する。九世紀から一三世紀にかけてアンコール‐ワット、アンコール‐トムなどの造営を行ない、民族文化の最盛を誇った。参照:コトバンク

サムナン:
この作品は輪廻転生のサークルを表しています。植物が育ち葉になって、花になって実になり落ちていく、といった循環です。

この作品を作るにあたって、最初にパフォーマーさんに聞いたのは、「泳げますか」ということと、私の作品は政治的な意味合いがあるのですが、それでも大丈夫ですか、ということでした。

作品の中で、パフォーマーさんには、漁師さんや農業をする人、あるいは動物になり、いろいろな変形(トランスフォーム)をしてもらっています。サークルの中には「愛」や「生きること」「死ぬこと」など、全てのことが自然とともにあるのです。

立ち上がって歌いながら、踊りだすサムナンさん(大喝采)

藪本:
すごくおもしろいですね。表現とともに、言語を超えた言語を体感した気がします。

そろそろ終了の時間が迫ってきているのですが、石倉先生と一緒に、サムナンの詩、舞踏、彼らの作品等について、総括して分析してみましょうか。

石倉:
そうですね。中国とカンボジアの関係が含まれていましたね。

藪本:
そうですね。

石倉:
サムナンさんは、いつも神話とともに現代のポリティクス(政治のために行うこと)を考えています。それは「善と悪」というより、拮抗したり共存したり、混じり合ったり反発し合ったり、常に陰と陽のように動いている。そういう「哲学」としか言いようのないものがありますね。

ポピル / Popil

藪本:
この「ポピル」の作品では、赤いタスキをかけている龍は、おそらく中国のことをさしていて、もう一方の伝統衣装をまとっている龍は、カンボジアのことを意味している、と理解しています。

これが近づいたり離れたりしている様子が、今の中国との関係を表現しているように感じます。アジアには、中国と微妙なポジションを取らなければいけない国が多いため、他の多くの国にも、普遍的な価値を届けているように思います。

石倉:
そうですね。実際に湖が中国企業によって埋め立てられようとしていましたね。そこで、パフォーマンスというひとつのパワーが力になったと考えてもいいでしょう。

藪本:
それらのことから、多くの国がサムナンさんの活動やアートプロジェクトのサポートを行っている、といえるのではないでしょうか。実際にそれがひとつのコミュニティーをつくって一種の抵抗活動となり、カンボジアでのダム建設も中断することができたわけです。

これは、抵抗活動を通じて、原発のない県・和歌山を生み出したようなことと同じ構造となっているかもしれませんね。

石倉:
原発のない和歌山を支えていたのは、日常生活を大事にしている漁業の方でした。海を大事にしている、海に暮らしている人々だったわけです。「この海はお金にかえてはいけない」「海にある水や魚を自分の世界観として守っていかなくてはいけない」ということを表現する必要があります。これが今の美大で教えなければいけないことでしょう。

藪本:
抵抗活動というのは、まさに南方熊楠のナショナルトラスト運動*もそうですし、中上健次*が小説を通じて行った「路地の活動」もそうですね。先達たちがやってきたことを引き継いでいかなくてはいけない、ということを示しているように感じます。

*ナショナルトラスト運動・・・市民が自分たちのお金で身近な自然や歴史的な環境を買い取って守るなどして、次の世代に残すという運動。
参照:環境省「ナショナル ・ トラストの手引・あなたの大切な 自然や歴史的環境を のこすには」

*熊楠が保護すべき景勝地として挙げたと伝わる天神崎は、後に日本のナショナルトラスト運動の発祥の地となり、保護運動に参加した多くの人々は熊楠の世界観・風景観を確実に継承してきた。参照:南方熊楠顕彰館

*中上健次・・・小説家。和歌山県新宮市出身。故郷の紀州熊野の風土を背景として複雑な血縁関係に生きる人間を中心に描き、民俗、物語、差別などの問題を追究した。参照:コトバンク

石倉:
どこの党、どこの政治がいいとか悪いとかも、もちろん大事ですが、それをもう少し踏み込んで考える必要があるのではないでしょうか。例えば、どうして南方熊楠が木を切ることに反対したのか、どうして柳田國男と連携してそれを守ったのか、などです。

国会議事堂の政治ではなくて、近所の森や目の前の浜や砂や小鳥、あるいは男女の政治などのような、すごく近い感覚が大切だと思います。

藪本:
熊野本宮大社や多く残っている名前もないような神社やお寺を、名もなき人たちが綺麗にし、守ってきたような積み重ねのようなことだと思います。

また、もう一つお伺いしたいのですが、石倉先生は獅子舞について調べていますよね。この「ポピル」の作品の仮面や動きは、日本の獅子舞とつながっていないでしょうか。

石倉:
「獅子」という言葉についてですが、江戸時代までの日本には「動物」という言葉がありませんでした。同じように「植物」という言葉もなかったのです。

四つ足の大型の動物のことは、全て「シシ」と言っていました。シカのことは「カノシシ」、イノシシも「シシ」ですね。「アオシシ」は「カモシカ」のことでした。そして、想像したライオンのことも「シシ」と言っていました。

あと、地を這う生き物のことは全部「ムシ」と言っていました。蛇も「ムシ」です。つまり、「ムシ」や「シシ」という言葉は、とても流動的で大きなカテゴリーだったわけです。そういう意味から、「獅子舞」というのは、想像もできないライオンから目の前の四つ足の動物までを含む、大きなカテゴリーの言葉になるのです。

抽象的な動きで、獅子舞に頭を噛んでもらう地域もありますね。石垣島では、赤ん坊を獅子に飲み込んでもらって、お腹から出すんです。生まれ変わるということで、もう一度産まれなおさないといけない、というイニシエ-ション(通過儀礼)があるのです。

藪本:
サムナンさんがカンボジアで行っている「ホワイトビルディングプロジェクト」というものでも、ずっと仮面を扱い続けていますね。

「ホワイトビルディングプロジェクト」というのは、今はカジノになっている昔の白いビルを再生させるプロジェクトのことで、サムナンさんは、白い仮面をかぶった人たちの写真をとっています。そこからまた仮面の作品を構築しているのですが、石倉先生が言われた通り、生きている人達がいる限り、何時でもホワイトビルディングは「生まれ変わる」という意味を持っているように思います。

石倉:
そうですね。私が好きなカナダの先住民のアーティストでボー・ディック(Beau Dick )という人がいます。彼はシャーマンで、首長で、パフォーマンスをするアーティストなのですが、彼はずっと伝統的なマスクを作りつづけていました。

彼は太平洋の向こう側のカナダで、とても美しくパワーのあるマスクを亡くなるまで作り続けていました。海をぐるっとまわったカンボジアで、サムナンさんが同じようにマスクを作っている、というのを考えると、「仮面」というものが普遍的なアートだと認識させられます。

6.「土と根の記憶」日本の神について

(撮影:下田学)

藪本:
先ほども話題に出た舞踏についてですが、舞踏の踊りは、「足をすりながら動く」という動きが特徴かと思います。これには、どのような意味があるのでしょうか。

石倉:
土方 巽(ひじかたたつみ)*が言うには、ヨーロッパのダンスは立つところから始まるそうです。だから、バレエのようなきれいな動きになるわけです。でも、土方のダンスは、大地に立てないところから始まります。足を引きずったり、大地にひきずられながら、のたうちまわるような、赤ん坊がうごめくようなダンスで舞踏を作っています。

*土方 巽・・・秋田市で1959門下の増村克子に師事した後、昭和24年上京し、クラシックバレエやモダンダンス、パントマイムを学ぶ。34年体の重心を低くした独自のスタイルの舞踏の出発点となった「禁色(きんじき)」を発表。参照:コトバンク

これはヨーロッパの美学とは違う源流になると思います。それは、固有の哲学を持っています。「大地に近い」ということがひとつです。あとは存在というものを哲学の概念を使って表すと「being」「ある」ということではなく「become」「なること」の哲学だと思います。

さっきサムナンさんが、植物が土から生えて葉を生やして枝を伸ばして花が咲いて、実になって大地に戻っていくという循環の話をしましたよね。これはまさに「become」で「なること」です。私たちは、何かに変容することを「成る」といいます。「トランスフォーム」のことは「becoming」と言いますが、ここで注目すべきは、みかんは「なる」と表現するのですよね。

これは存在の哲学とちょっと違っています。「みかんマンダラ」というものも、常に変容しているのでしょうね。

少し神話の話をしますと、スサノオは「根っこ」の神様であると同時に「becoming」の神様でもあります。唯一スサノオだけが天界から地上、地下、海という形で、ぐるぐると植物のように循環しているからです。

スサノオは、三兄弟です。一番上のお姉さんが「太陽」で、二番目の兄弟は男か女かわからない「月」で、三番目のスサノオは、根っこや海や熊野と関係がある神様です。

「スサノオ」は、クメールの神話と関係があるのでは、という人がいます。なぜかというと、古いクメールの神話には、太陽と月と彗星という3兄弟がいて、その3番目の末っ子が、いつも泣きながら宇宙をぐるぐる駆け回っているからです。そして、姉や兄を飲み込んで吐き出します。これが月食と日食の起源です。この末っ子を「ラーフ」といいます。

藪本:
「ラーフ」と「スサノオ」共通説ですね。

ちょっと駆け足で総括してもらいましたが、カンボジアと紀南、土や自然との関係を、何となくご理解いただけましたか。みなさん、いかがでしょうか。ご質問がありましたらどうぞお願いします。

参加者 1:
日本や熊野というのは八百万の神様ですが、カンボジアの神様というのは、どのような神様なのでしょうか。

サムナン:
カンボジアには多くの宗教があります。キリスト教やヒンズー教などいろいろあります。私が信じている神は「自然の神」です。

参加者 2:
天空そのものが神、大地そのものが神というのは、カンボジアにもいらっしゃるのですか。

藪本:
これは、専門である石倉先生から最後に少し解説していただきましょう。

石倉:
大国家が神話を組織すると、全ての神が人格化します。エジプト神話もそうなのですが、大地が一柱の人間神、天空が一柱の人間神となり、そこからさらに、万物を創造する一神教の神というものが生まれてきます。

最初の神は「動物」だったのではないか、という人がいます。「人間神」に仕える「動物神」ではなくて、最初にたくさん動物の神がいて、人間の神はいなかったというのが、旧石器時代の古い考え方ではないかと言われています。

藪本:
すごくおもしろいお話なのですが、そろそろお時間になりました。もっとお話を聞いてみたいのですが、ここまでとさせていただきましょう。サムナンさんのこれからの作品を楽しみにしています。

最後にゲストスピーカーのサムナンさんと石倉先生のお2人に拍手をお願いします。