唐澤太輔氏による特別トーク‐『太陽の塔』上映会を終えて‐テキストアーカイブ

ふたかわ超学校×紀南アートウィークによる共同開催イベント

2022年10月14日(金) 、みかんマンダラ展会期中に開催した特別トークショー「太陽の塔 上映会を終えて‐」のテキストアーカイブです。

日時 2022年10月14日(金)
会場 tanabe en+(タナベエンプラス)〒646-0031 和歌山県田辺市湊41-1
定員 25名
イベント詳細:https://kinan-art.jp/info/9660/

ゲストスピーカー

唐澤 太輔
秋田公立美術大学美術学部アーツ&ルーツ専攻ならびに大学院複合芸術研究科准教授。哲学、文化人類学を専門とし、南方熊楠の思想を通じて、民族・宗教・文化の根源的「在り方」を探求し続けている。

パネリスト

福島 正知
2007年に和歌山県田辺市に移住。自然に寄り添う暮らしをしながら、宇宙の神秘や生命の不思議を「音」を通じて表現する現代アーティスト。紀南アートウィーク2021では、前田耕平「Breathing」の楽曲を担当、熊野の自然の音世界を巧みに取り入れた楽曲を制作・提供。

http://awayajp.com/

くらたに ともみ
小学校教員として勤めながら、フラダンスのチームを持ったり、環境保全活動や自主上映会活動「ふたかわ超学校」をしたり、紀南にオルタナティブスクールをつくるために積極的に活動している。自身が小学生のころに、南方熊楠の脳みそを見てから「熊楠の脳になって死にたい。」と思うほどの熊楠ファン。

川崎 由依子
8年前に千葉県から和歌山県田辺市に移住。棚田でお米を育て、おむすび屋を開業。数年前から、みかん畑を引き継ぎ、お米やみかんを無肥料・無農薬で育てている。自然に近い暮らしをする中で、太陽の動きと暦の重要性に気づき、自身でも「暦のおはなし会」を主催。

モデレーター:藪本 雄登(「紀南アートウィーク」実行委員長)

唐澤太輔氏による特別トーク‐『太陽の塔』上映会を終えて‐

1.はじめに

藪本:
では、そろそろ始めたいと思いますので、皆さん前に出てきていただけますか?今回はみかんの中に宇宙を見る、みかんマンダラ展の関連イベントである上映会後の特別トークです。オレンジの語源であるサンスクリット語のオランジ(内なる芳香という意味)とマンダラ(丸いという意味)とを重ね合わせながら、南方熊楠や粘菌についてもお話が聞ければなと思います。

まずは最初に、南方熊楠を研究されている唐澤先生から、「太陽の塔」に関するお話をいただき、その後、ゲストのふたかわ超学校のみなさまや出展アーティストの福島さんにも、お話を伺えればと思います。どうぞ、よろしくお願いします。

参考:紀南アートウィーク2022「みかんマンダラ」

補足:福島正知氏は、「みかんと人のサウンドトーラス」という名の作品を出展(以下、福島氏との対談場面で作品紹介)

唐澤:
こんばんは。よろしくお願いします。

映画『太陽の塔』が公開されたのは2018年秋です。私のインタビュー部分は、2018年の春に撮影されました。今から、約4年前になりますね。その時と今とでは、新型コロナウィルスや戦争などで社会情勢や世界の在り方が大きく変わってしまいました。しかし、それだけにまた新たな感覚で見ることができる映画だと思います。

参考:『太陽の塔』公式twitter

2.岡本太郎の「祭り」と南方熊楠の「遊び」

唐澤:
この映画を見ただけで、本3冊読んだくらい、何というか…爽やかな頭の疲れがありますよね。監督の関根光才さんからインタビューを受けた当時から時間が経ち、改めて思ったことや考えたことがありますので、その辺りを手短にお話したいと思います。

(以下、唐澤先生から提供いただいたスライド画像を使用)

岡本太郎は太陽の塔を制作するにあたって、このように述べています。


さて、テーマスペースの中心に立てる”太陽の塔”にしても、洒落たり気どった風情よりも、根源によびかけ、生命の神秘を凝集した神像のようなつもり。それを祭りの中心にどっしりと根をはって据えつける。己れ自身としてみちあふれ、リアクションではない、アクションの凄みと、おおらかさをうち出し、世界の幅全体にこたえたいと思うのである。(岡本太郎『芸術新潮』1968年、平野暁臣『岡本太郎と太陽の塔』2018年小学館所収p.15)


すごいことを言っていますよね。根源に呼びかけるものを作り、かつ、塔そのものが存在感に満ち溢れるようにする。そして、受動的なリアクションではなく、太陽の塔が在ること自体が積極的なアクションとなるような「凄み」を打ち出したいんだと。

また、岡本太郎は太陽の塔をよく「ベラボーなもの」と言っています。それは端的に、私たちの「普通」の想像を凌駕するようなものです。生命エネルギーを凝集し、ついに爆発させたものが太陽の塔なのです。

そして、それを「祭り」の中に打ち出す。気をつけなければいけないのは、それはいわゆる「お祭り」ではなく、「祭り」であること。ただ華やかな人の集まりのようなものではなく、もっと信仰的な意味合いがあり、生命的で、極めて神聖な意味合いがあるということです。このような「祭り」においてこそ人間は日常の卑小な枠を超えて、大宇宙と結びつくのですね。

岡本太郎は、私たちが太陽の塔と対峙することによって、人間という枠を外す、あるいは外さざるを得ないような体験を促そうと考えていたのではないかと思います。

また、ここ和歌山出身の南方熊楠は、顕微鏡で粘菌を見ることで、大宇宙を感じることができると言っています。つまり、個の中に全体(大宇宙)を感得するという視座は、太郎と熊楠の共通のものとして、非常に重要だと思うのです。

そして、これこそ「祭り」の根本です。それは「お祭り」ではない。これは「遊び」と「お遊び」という事柄にも通じます。岡本太郎はよく「遊び」という言葉を使いますが、実は熊楠も「遊び」や「遊ぶ」ということをよく言っているんですね。熊楠にとっての「遊び」とは、植物を採集したり、粘菌を見つけたりすることでした。彼はそれを「お遊び」とは決して言わない。熊楠にとって、それは自身の命をかけた切実な行為でした。だからこそ、その先に、生命を揺るがすような強烈なカミ体験があるのです。ハイデガーであれば、それを「エルアイクニス」と言うでしょう。

参考:エルアイクニス…哲学者マルティン・ハイデガーによって探究された概念。ハイデガーは、生涯をかけて「存在」について研究していた。彼がいうエルアイクニスとは、存在者が与えられることのうちで抜け落ちていく存在の経験を指す。それを、存在と現存在との呼応関係とも呼んでいた。

3.融通無礙と相依相待

映画の中で、融通無礙(ゆうずうむげ)という言葉が出てくるのですが、ちょっと補足しておきたいことがあります。

融通無礙とは、基本的に、異なるもの同士が妨げなく浸透し合うことを指します。しかし、それらが迎合的もしくは妥協的に繋ぎ合わされるのではないということに、私たちは注意しなければなりません。

そもそも、岡本太郎は単なる同調や均質化に反発する人でした。そして、異なるもの同士が同じ場を占める時に生じるめくるめくエネルギーの交換を重視していました。彼がいう対極主義も、恐らく同じようなことだと思います。

熊楠が研究し続けた粘菌という生き物も、動物と植物、生と死の対極主義を、ある意味において内包しているとも言えそうです。つまり、粘菌は異なるもの同士が交わることで、豊穣なエネルギーを常に発し続けている生き物だと思うのです。そして、このエネルギーの交換(交感、交歓)を見出すためには、私たちにも果敢な対決の精神が必要になってきます。

ただ相手を打ちのめしてやろうではなく、その場に生じるエネルギーを感じ取ろうとすることが一番重要だと思います。社会学者の鶴見和子さんも熊楠を評して「対決を恐れない精神を持っていた」と言っていますね。真の対決においては、こちらとあちら、暗と明、人間と非人間、一見異なるように見えるもの同士が目まぐるしく交わります。そこに身を置くことができたとき、私たちは驚愕し、雷に打たれるような経験をするわけです。

参考:融通無礙(ゆうずうむげ)…滞ったり、つかえたりすることのないこと。転じて、考え方や行動が何物にもとらわれず自由でのびのびしていること。

参考:コラム「写真家・岡本太郎、対極主義の眼」飯沢耕太郎 (写真評論家) 

岡本太郎の提唱する「対極主義」…対立する2つの要素をそのまま共存させることであるとする、1947年頃から唱えた岡本太郎の主張。

参考:鶴見和子

著書には、『南方熊楠―地球志向の比較学―』などがあり、南方熊楠や柳田国男を研究し、民俗学を取り入れながら確立した独自の比較社会学の分野を確立した社会学者。

異なるもの同士の動的な絡み合いや重なり合いを前提とする異種共存。同種のみで構成されるコミュニティではなく、異なるもの同士が絡まり合いながら生成する様を捉えること。このような考えは人類学でもとても重要視されていますし、アートにおいても重要ですね。石倉敏明さんの言う「共異体」の概念ですね。。

配慮すべきは異種間にある関係そのものです。安定的、自立的ではなく、動的で常に変化し続けること。これを、相依相待(そうえそうたい)といいます。お互いにより合うけれど、それは迎合的で妥協的な依存ではありません。自分がいるためには相手が必要、相手がいるためには自分が必要という感覚を、常に持ち続けるということ。その時に生まれるダイナミズムは非常に美しいと思います。圧倒的に美しい。

参考:高井寺公式ブログより

相依相待…仏教用語。相互に因となり縁となって相依り相まって存在する道理。

もうひとつ最後に、時間に関して伝えたいことがあります。藪本さんが書かれていたコラムの中に、みかんの元は「橘」だったとありました。そして、橘の別名は「非時香菓(ときじくのかくのこのみ)」と言います。

「時」に「非(あら)」ず。この言葉からわかることは、要するに、みかんや橘は、時間というものを超えてしまっているということです。通常の人間スケールの時間感覚だと、捉えられないくらい超越したものだと考えることができます。昔の人は、この実を見て、そのことを敏感に感じ取っていました。

このような観点は、太陽の塔あるいは岡本太郎、もしくは南方熊楠の時間観と何か繋がるようなものがあるのではないかという気がしています。二人とも人間スケールには収まらない時間を思考をしていますね。地球規模というか、惑星規模というか。太郎も熊楠も、人間の時間観では計り知れない原生生物にまで遡り考えを巡らせています。この人間の枠を超えていくスタンス。これが面白い。長くなりましたが、私の話はこれぐらいにしたいと思います。

4.パネリストのみなさまとの対話

藪本:
唐澤先生、ありがとうございました。これからは魅力的なパネリストの方々に質問を投げていただきたいなと思います。まずは、福島さんからお願いします。唐澤先生に討議を投げかけていただけると幸いです。

福島:
私は15年前、中辺路に移住してきてから、南方熊楠を知ったのですが、知れば知るほど熊野を代表する人だなと感じています。そもそも、先生がなぜ熊楠研究をされるようになったのかをお伺いできたらなと思います。

唐澤:
はい、ありがとうございます。私のきっかけは、南方マンダラですね。鶴見和子さんの『南方熊楠:地球思考の比較学』という本を読み、南方マンダラに衝撃を受けました。 ただ、調べれば調べるほど分からないことがどんどん出てきて、未だにわからないことだらけです。南方マンダラは熊楠の思想の核です。熊楠の天才的な脳による思考がそこに表現されています。南方マンダラのあの錯綜する直線と曲線自体、熊楠の脳みそもしくはニューロンを連想させますね。

出展:紀南アートウィーク実行員会より提供

藪本:
福島さんも、今回「みかんと人とのサウンドトーラス」という作品を展示されていますが、熊楠同様、人間と植物の関係を模索しているように感じました。それについては、いかがですか?

福島:
そうですね。今の現代社会というのは、人間が優位にあって社会の中心で…。それに対して、植物とどう向き合うかという時点で、少し上から目線的なところがあるんだなと、展示を見ていただいたお客さんからのコメントで気づきましたね。逆に、思い知ったというか。

私は、移住してきてから、農作業はあまり機械を使わずに全て手作業で、自分の手で農作物を育てるということをしています。そうすると、人間と植物の関係が並列であるという感覚が、自分にとってすごく当たり前になっているんだなと。

唐澤:
本来的には人間と植物は、福島さんがいうように並列的もしくは対称的(シンメトリック)な関係にあるはずです。しかし、いわゆる都市に住む私たちの多くは、往々にして両者に大きく分厚い壁があると考えています。いや、そのこと自体忘れてしまっていますね。しかし、福島さんは、両者の本来的な対称性と浸透性を本作品で非常にユニークな形で表現したという感じがしました。

藪本:
ありがとうございます。唐澤先生のお話を聞いて、太陽の塔は太陽の供物なら、みかんも太陽の供物であると思ったのですが、暦を学ばれている川崎さんに何かコメントいただければ幸いです。

川崎:
人間と植物の話をする時に、太陽や暦の話をよくしますね。私たちの暮らしは、太陽の影響を受けていて、そのバランスを取ってくれているのが植物です。暑い時は体を冷やすことができるものが作物として得られるし、寒い時は体を温めてくれるものができる。だから、植物たちはいろいろ形を変えて、私達の身体が変わらない分、「食べること」で補わせてもらっているなと感じています。

みかんについて面白いことがあります。みかんは、秋分と春分の間にできるもので、秋分の日を境にみかんがたくさんできて、冬至という一番寒い時を境に、大きな種類のみかんができてくる。まさに太陽だなぁと。みかんは、太陽のシンボルと言うのかな…。冬至の寒い時に、どん!と、太陽の力を与えてくれる感じがするなぁと思っています。 また、春から夏にかけて日が延びていく時に、花を咲かせますが、まさしく太陽を祝福しているというか。喜びを感じているなと、みかんを育てる中で感じていますね。

藪本: 
なるほど!ありがとうございます。続いては、熊楠の大ファンでもある、くらたにさんはいかがですか?

くらたに:
私は熊楠の脳みそを見て、単純にすごい!と稲妻が走ったような衝撃を受けたのが興味をもった始まりです。それを見た時に、マンダラだと思いました。当時は小学生だったので、マンダラが何かも分かっていない時でしたが…。熊楠の脳は、標準レベルの重さなのですが、溝の深さにすごい興味を魅かれて、それ以降、熊楠の脳みそになって死にたいと思い続けています。(笑)

私は母の故郷である那智に行くたびに、熊楠がそこにいて、生きている感覚があるのですが…。唐澤先生の著書や映画の中でも、熊楠は生と死さえも曖昧なものとして捉えていると知って、本当に生きているのかもしれないなと感じるようになりました。

また、唐澤先生がどのように熊楠研究をされているのかが気になります。熊楠に関しては、常人では理解しがたい面もあるなと感じているのですが、どのような視点に立って研究しているかの観点や視点があればお聞きしたいです。

唐澤:
私が熊楠を研究する上で、気をつけていることは、意識的に自分を熊楠にチューニングするということです。「研究者」である限り、対象を主観からなるべく切り離して客観的・分析的に捉えることが重要になってきます。もちろんそれはとても大事なのですが、一方で、それだけだと熊楠を「理解」できても「納得」はできません。人間・熊楠の芯の部分が分からないままになってしまいます。彼の言っているある種オカルティックな部分も含めて、一度全て真に受けてみることが大切だと思います。はなから疑うのではなくて。熊楠が言ってることをまずは受け止め、彼の目線に自分を調律して熊楠に近づく姿勢を心がけています。

5.関係の、その先へ

藪本:
ありがとうございます。他に会場から、ご質問がある方おられますか?

会場の参加者:
高校で写真部の顧問をしています。今日も写真をたくさん撮って、その後にこちらに来ました。そして、今日の活動テーマは「関係」だったのです。お話の中で、関係という言葉も多く出てきて、驚きました。もし、登壇されている方が「関係」というテーマで写真を撮ってきなさいと言われたら、何を撮りますか?何か思い当たるものがあったら、教えていただきたいなと思います。

藪本:
とても、いい質問ですね。

出展:紀南アートウィーク実行委員会より提供

唐澤:
僕も今日、カメラを持ってきたので、実際いろいろと写真を撮りました。その中で、1番多く撮っていたのはおそらく、この作品だと思うんですよね。ビー・タケム・パッタノパスさんの「うちとそと#3」。ここに、まさしく「関係」が表れていると思いますね。この作品を前にして想起したのは、因陀羅網(いんだらもう)です。これは華厳思想で、全体の中に個々があるだけではなくて、個々の中に全体が入り込んでいるという関係性を表す比喩としてよく用いられるものです。

私の専門は哲学なのですが、哲学の最も大きな問いは「関係性」だと思っています。自己と他者、生と死などの複雑怪奇なあり方をひたすら問うていくことだとも言えます。そのような問いをこの作品からも感じたので、たくさん写真を撮りました。

参考:因陀羅(帝釈天)が住む宮殿を飾っている。その無数の結び目の一つ一つに宝珠があり、それらは互いに映じ合って、映じた宝珠が更にまた互いに映じ合うとされるところから、世間の全存在は各々関係しながら、しかも互いに障害となることなく存在していることにたとえる。

藪本: 
ありがとうございます。くらたにさんは、いかがですか?

くらたに:
先生、今日一緒に来ている学生さんに、実際に何を撮ったか聞いてもいいですか?

写真部の学生:
僕はちょっとひねくれているので、関係なんて取りたくないなぁと思って…。何を撮ろうかっとなったときに、無関係や!と思ったんです。無関係なものを撮ろうって。けれど、身の回りにある無関係なものを探したんですが、意外と無いんですよ。

結局、いろいろなものがつながって、結局自分に来るような…。それではダメだなと思ったので、男の子を1人連れてきて、ある家の方向に歩いて行って。まるで、その子の家みたいな風に振る舞ってくれと伝えました。

その子の家に撮りに行ったように見せかけて、実は全く無関係という。そういう写真を撮りました。

(会場、大爆笑と拍手。)

唐澤:
素晴らしいですね。僕が務めている美大でも、お話をしてほしいくらいです。

しかし、無関係と思っていても、常に既に関係性は生まれているんですよね。私たちは関係性においてこそあるのです。その男の子とあなたが出会った時には既に関係が生じていますし、見ず知らずの家を見つけた時には、既にあなたとその家は関係性に巻き込まれている。やはり私たちにとって無関係なものはなく、全てが全て相依り相俟っている。それが「世界」ですね。すごい気づきだね。ありがとう。

6.おわりに

藪本:
最後に、唐澤先生からまとめのお言葉いただけますか?お願いします。

唐澤:
熊楠は、人間による生と死の区別は決して、絶対的なものではないと考えていました。粘菌を見ればそれは明らかですし、その区別はそう簡単にできるものではありません。しかしながら私たちは、生と死を単純に区別し、さらに生に絶対的な価値を置いています。しかも無意識的に。しかし、本来的には、死があるからこそ生の輝きというのが分かりますし、生があるからこそ死を恐怖することができますよね。この関係性に自覚的になれるかどうか。そして、その時感得されるものが「大宇宙」なのだと思います。

人間において、脳の機能が停止すれば死、心臓の鼓動が止まれば死だとすると、それらを持たない粘菌はどうでしょう?あるいは、みかんは?

つまり、生物によって生と死を区別する基準点は異なるのだと思います。ただ、多くの生物は生−死の過程で腐敗していきます。この「腐る」という現象は面白いですね。生と死を媒介する「腐」。当然、みかんも地面に落ちて腐り、バクテリアがそれを食べて、だんだん分解して、土に還っていきます。そして再び姿形を変えて現れるわけです。粘菌然り、みかん然り、生物の生と死の区別は異なり、そのようないろいろな生−死が折り重なって「世界」は成り立っています。そこには凄まじく美しいエネルギーが存在しています。私たちには、まずもって人間スケールを超えて生−死を捉え返そうとする思考の転換が必要でしょう。アートにおける体験は、その大きなきっかけになるはずです。

最後になりますが、今回の「みかんマンダラ」についても少し付言しておきたいと思います。本来的なマンダラは、基本的に視覚情報が重視されるものです。一方で「みかんマンダラ」は、私はとても嗅覚的だと思いました。もちろん、それ以外の感覚も大いに刺激されましたが、全体として、どの会場でもみかんの香りが印象的でした。会場全てに浸透する爽やかな匂いがありましたね。展覧会全体を見て、芳醇に香るマンダラを感じました。

藪本:
ありがとうございます!会場にいるみなさまも、長い時間お付き合いいただき、ありがとうございました。また、パネリストの皆さまに盛大な拍手をお願いします。