リサーチ & コラム

みかん民主主義 -コレクティヴって何?-

1 みかんは、コレクティヴか

現代のアート実践では、美術史家クレア・ビショップが述べる「社会的転回(social turn)」が一定の影響力を保持し続けている。社会的転回とは、現代アートの実践において、「美的」価値から「社会的」価値への移行が進んでいる状態を意味する[1]。つまり、作品の態様や新規性より、社会や政治に対する現実的な貢献や影響を重視する潮流のことである。

和歌山県紀南地域のコミュニティも、その他の地域同様、市町村合併、過疎化、インターネット社会の進展等の複合的な要因によって、いわゆる「地縁」に基づく伝統的かつ世襲的な枠組みが「リキッド化(液状化)[2]」しつつある。その溶解しつつあるコミュニティにおいて、今までとは異なる「新たな関係性」を創出し、再構築するために「芸術」が求められている。増加の一途を辿る地域芸術祭は、そのような背景の証左であろう。

近年、横浜トリエンナーレやドクメンタ等の重要な芸術祭において、アート・コレクティヴが芸術監督を担っていることからも明らかな通り、芸術を通じて「新しい関係性」を再構築する上で、アート・コレクティヴという集団の存在は重要度を増し続けている。アート・コレクティヴは、持続性や生存可能性の観点から、アーティスト単独ではなく、複数でチームを構成し、その集団的主体性をひとりのアーティストと捉えるような動きである。過去、アジア各地のアーティスト・コレクティヴと関わってきた経験を踏まえると、コレクティヴには、①共通の目的や価値観を有しながら、②異なる技能やバックグラウンドを持つ人達が緩やかに集まり、③広く外部と接しながら集合的実践を行う、という傾向がある[3]

このような「コレクティヴ」という生存のための方法は、みかんの世界においては極めて当然の方法論である。

みかんは、ある種の集合体だ -

                         とある紀南のみかん農家

これは、紀南地域のみかん農家へのフィールドワークを重ねる中で特に印象に残った言葉だ。みかんが得た水分や養分は全体で共有されるが、細胞自体は動物のように全体に移転することはない。例えば、外部から接ぎ木される枝の遺伝子は、クローンとして別個の存在として維持される仕組みとなっている。そのような観点から、異なる存在が同居しながら、統合されているみかんは、まさに集合体(コレクティヴ)のようなものではないか、ということである。また、みかんの果実もある種の集合体だ。みかんを構成する果皮、内果皮、維管束等、その境界は曖昧で、どこからどこまでが全体で、どこからどこまでが部分かは定かではない。みかんの木、みかんの実も、緩やかなコレクティヴなのである。

川崎農園 (秋津町) Photo: coamu.creative

2 みかんに “民主主義” はありうるのか

現在のヒトの社会を見渡すと、SNS等を通じたポピュリズム政治や若者の政治的無関心等、私達は、今まさに民主主義制度の経年劣化に直面しているように思う。もちろん、みかんに民主主義を観念することは馬鹿げた話かもしれないが、ヒトならざるものの視点から思考することは、新たな民主主義を構築する上で重要ではないだろうか。

ただし、みかんに人間の基準(ヒューマン・スケール)を当てはめることは、人間中心主義的ともいえる点には留意が必要である。そのため、みかんの民主主義は、通常の民主主義とは異なる概念として、括弧付きの “民主主義(又は、みかん民主主義)” として表現する。

まず、上記で述べた(集合体としての)みかんは、どのように思考をしているのだろうか。みかんの視座を得るために、ミッシェル・セールの「準-客体」の理論をみかんに適用してみたいと思う。「準-客体」の理論とは、受動的な客体(モノ)でありながら、同時に主体として能動的かつ自律的な働きをもって機能する対象の見方である[4]。みかんを「準-客体」として捉え直せば、客体(みかん)は主体(ヒト)に対して従属的な関係から再構築され、むしろ、複数のヒトとみかん、さらにいえば、みかんとみかんとの能動的な相互関係によって、複数のみかんからなる動態を構成することができる。つまり、ブルーノ・ラトゥールがいう「モノの議会[5]」のように、無数の「ヒトならざるもの」に、 “民主主義” といった公益性や社会性を見出せる可能性がある。

そもそも、「民主主義」とは多義的な言葉である。その語源であるギリシャ語の「デモス」とは「人々」のことであり、「クレイトス」とは「権力」を意味する[6]。そして、その重要な要素は、「自由(規則と権力からの分離)」と「平等(資源と権力の公平な分配)」であり、「自由」と「平等」は、「根」と「枝」の関係のように常に逆向きに作用し、一方が増大すると、他方が減少する関係にある。この二つの要素が調和するのが民主主義の機能である。集合体としてのみかんでは、どのように「自由」と「平等」を調和しているのだろうか。

紀南のみかん農家にヒアリングを行ったところ、みかんには、人間が刑法等を制定するような、自由を制限するような強権的な仕組みはないようだ。例えば、みかんの根は、一部の枝や葉等に水分や養分を行き渡らせないような措置を取ることはできない。逆にいえば、みかんは常に、全体に対して平等な措置を取り続けている。常に平等であるからこそ、幹や枝は常に自由に活動することが可能である。つまり、中枢からの命令により、みかんは幹や枝が伸びることを停止させることはできない。ということは、みかんは、いわゆるヒトの民主主義とは異なり、「平等」と「自由」を完全に保障し、完璧な “民主主義” なるものを構築しているのだ。

デイビット・グレーバーが『民主主義の非西洋起源について:「あいだ」の空間の民主主義』で述べている通り、 ”民主主義” は、古代ギリシャのアテネ等の西洋世界で生み出されたものではなく、ヒトと自然を分割しない先住民族等が生み出してきた生存のための知恵ではないか。この “民主主義” において、少数者は多数者の意見に従う必要はない。確かに、自由に伸びすぎたみかんの枝は、重力により折れるなどして自然の摂理に基づいた処理がなされるが、自己の常に自己の存在や判断を正論として主張することが許されている。実は、本来的な “民主主義” とは、みかんの木等の植物や自然が起源の可能性があるのではないだろうか。今の国民国家によって規律された民主主義は、本来的な “民主主義” ではない。私達は、みかんの世界から、「自由」と「平等」を再度捉え直す必要があると考える。

さらに踏み込むと、ヒトの社会において「自由」と「平等」を調整する上で重要なのが、公共財である。公共財とは、各個人が共同で消費し、競合せず、いかなる者も排除されずに利用できる施設や物やサービスである。例えば、河川、一般道路や消防、警察等のインフラやいわゆるコモンズ等といってもよい。ヒトの社会では、公共財は信託される側と信託する側の合意によって、自由と平等を具体的かつ柔軟に調整している。みかんの社会では、何がその中枢たる公共財なのだろうか。

結論を述べると、みかんに中枢はない。そのため、みかんに公共財はない。もしくは、全ての部分が公共財といえるのかもしれない。もっとも、私は、そのようなみかんにおいても、「根」が公共財といえるような重要な機能を果たしているのではないか、と直感する。みかんの一大生産地である和歌山県紀南/熊野地域は、「根の堅州国(ねのかたすくに)」といわれる場所である。根の堅州国とは、古事記に記載される地底奥深く、海の彼方など、現世から遠く隔たったところにあると考えられる世界であり、スサノヲ神が宰領する国ともされる。紀南/熊野の住人は、「地中の神」であるスサノヲ神を祀ってきた。上記問いに答えるためのヒントは、視覚で捉えられない、地中で謎に包まれた、みかんの「根」にあるのではないか。

この点、プラトンは、私達の「頭」、つまり、「理性」を「根」に例えており[7]、アリストテレスも『霊魂論』において、「動物において頭にあたる部分は、植物では根にあたる」と述べている。このように、みかんの知性が想起される場所は「根」なのではないだろうか。また、哲学者のエマヌエーレ・コッチャが「植物ほど、自分たちを取り巻く世界に密着している生物はいない。(中略)可能な限り世界に密着するために、植物は体積よりも面積を優先するかたちで、身体を発達させている」と述べているように、植物は、動物とは異なり、感覚器官が存在しない代わりに、根を地中に張り巡らせることによって、世界を抱き続けている存在である。みかんは、自身の状態や自身が浸っている環境の状態を獲得し、水分と養分を万遍なく全体に提供している。そして、みかんは、根を通じて世界を認識しながら、「種の存続」という思想を基礎に、その根、枝、実等、それぞれがまるで意思があるように集合的かつ有機的に行動しながら、全体最適化されている。この全体最適の帰結は「根」によるところが大きいと直感するが、今後のみかんコレクティヴの活動において、この仮説を更に深めていきたい。

川崎農園 (秋津町) Photo: coamu.creative

3 最後に -みかんとヒトの公共財は何か?-

最後に、ヒトの社会に戻ってこよう。現代アートの実践は、上述の通り、美的価値から社会的価値に重点が移ってきており、その実践において、集合体であるコレクティヴが重要なアクターとなりつつある。みかんコレクティヴでは、もう一歩踏み込んで、「ヒトの社会」の中に、「みかんの社会」を混ぜ合わせてみる。そこで、ヒトとみかんにおける “民主主義” の土台となる公共財を模索していきたい。

中空に「根(理性)」を持つヒトと地中に「根(理性)」を持つみかんは、上下逆さまの関係にあるが、これらの間に「重なり合う公共財」を見つけられないだろうか。この「重なり合い」を見出すには、「根」のことを深く思考すること、そのために、ヒトが転回し、みかんの根と向かい合うことが重要ではないか。和歌山県紀南地域がその転回のための要所になっていくことは間違いない。私達は、スサノヲ神の末裔であり、「根」と向かい続けてきた子孫の集合体(コレクティヴ)であるのだから。

以 上

紀南アートウィーク 藪本 雄登


[1] 星野太著『美学のプラクティス』水声社、2021年12月 詳細は、第二部「関係」を参照

[2] ジグムント・バウマン著、森田典正『リキッド・モダニティ ―液状化する社会』大月書房、2001年

[3] なお、今回、「コレクティヴ」という言葉をあえて使っているが、それは元来言語化されず、お祭り等の伝統行事や神社、教会や農家等の地域の人達の集まりの中での協働や相互補助のようなものとして、自然と実践されてきたようなものだ。そこで生み出されるアート(表現、知恵、記憶や感情等)が、リキッド化するコミュニティを再構築する公共財(コモンズ)となる可能性を秘めているように感じている。

[4] 清水高志著『ミシェル・セール: 普遍学からアクター・ネットワークまで』白水社、2013年

[5] ブルーノ・ラトゥール著、川村久美子訳『虚構の「近代」―科学人類学は警告する』新評論、2008年

[6] エツィオ・マンズィーニ著、安西洋介、八重樫文訳『日々の政治 ソーシャルイノベーションをもたらす デザイン文化』ビー・エヌ・エヌ新社、2020年

[7] Emanuele Coccia著、山内 志朗著 『植物の生の哲学:混合の形而上学』勁草書房、2019年

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