ダイアローグ
Vol.4 テキストアーカイブ(前編)
2021年10月21日(木)に開催したオンラインのトークセッション『紀南ケミストリー・セッション vol.4』を文字起こしした、テキストアーカイブの前編です。
※動画のアーカイブはコチラ https://www.youtube.com/watch?v=HA21bqDp3HI&t=1181s
タイトル:『発酵がもたらす豊かな世界 – 食から考える“美”とは – 』
日 時:2021年10月21日(木) 19:00~20:30
会 場:オンライン(ZOOMウェビナー)
参加費:無料
登壇者:藤原 辰史氏(京都大学人文科学研究所 准教授)
野村 圭佑氏(三ツ星醤油醸造元 堀河屋野村 18代目当主)
モデレーター:宮津 大輔(紀南アートウィーク アーティスティック・ディレクター)
総合司会:森重 良太(地域活性化プロデューサー)
発酵がもたらす豊かな世界 – 食から考える“美”とは –(前編)
森重:
皆様、こんばんは。
第4回 紀南ケミストリー・セッションを始めさせていただきます。本日の司会進行役を務めさせていただきます、南紀白浜エアポートの森重と申します。本日は、どうぞよろしくお願いいたします。
紀南ケミストリー・セッションは、紀南アートウィーク2021の開催に向けて様々なゲストを迎え、紀南の文化、歴史、風土について、縦横無尽に語り合うオンライントークセッションとなっております。
第4回となる今回は『発酵がもたらす豊かな世界 – 食から考える“美”とは – 』と題しまして、食と文化、思想、芸術との関係について探索するトークセッションです。
本日、2名のゲストをお迎えしております。
まず1人目は、『分解の哲学:腐敗と発酵をめぐる思考』や『ナチスのキッチン:「食べること」の環境史』などの著書があり、「食」という日常を斬新な切り口で語る、歴史学者の藤原辰史先生*。そして2人目は、江戸時代から続く「堀河屋野村」18代目当主の野村圭佑さんです*。本日のモデレーターは、紀南アートウィーク アーティスティック・ディレクターの宮津大輔先生にお願いしております。
*参考 藤原辰史の研究室
蔵の中で発酵させることで育まれる醤油が、日本文化にどのような影響を与えるのか。また「美味しい」と思うとは、どういうことなのか。そして「食」が思想、文化、芸術にどのような変化をもたらしてきたのか。それぞれの領域で深く「発酵」と関わってこられた2名のゲストからお話を伺い、「発酵」の意義を考察し、食と美の関係について改めて捉え直す、注目のセッションとなっております。
それでは、本日のゲストのお二方のプロフィールを、改めて紹介させていただきます。
まず1人目は、藤原辰史先生*。1976年、北海道生まれ。1999年に京都大学総合人間学部を卒業後、京都大学大学院人間・環境学研究科に進学。過去には、京都大学人文科学研究所助手、東京大学大学院農学生命科学研究科講師を勤められました。2021年4月現在は、京都大学人文科学研究所の准教授として、非常に幅広い分野でご活躍をされています。
先ほどご紹介した著書の他には、『給食の歴史』、『トラクターの世界史:人類の歴史を変えた「鉄の馬」たち』、『戦争と農業』、『縁食論:孤食と共食のあいだ』、『農の原理の史的研究:「農学栄えて農業亡ぶ」再考』などがございます。
そして2人目は、野村圭佑さん。三ツ星醤油醸造元「堀河屋野村*」18代目当主でございます。和歌山県御坊市のご出身で、大学卒業後は商社で8年間、大豆関連の輸入業務に従事されました。30歳のときに自らの意志で、家業の醤油・味噌製造業にご転身されました。醤油発祥の地である和歌山にて、最古の蔵の当主として自ら薪を燃やし、麴を育て、菌と共生し「作りながら伝えること」を信条とされています。
また、清酒、米酢、みりん、蒲鉾、茶の作り手たちと共に、100年後の食のあり方を見据えた食伝道ユニット「HANDRED」を結成し、日本のものづくりの素晴らしさを内外に発信しておられます。
*参考 堀河屋野村
*参考 堀河屋野村 オンラインショップ
*参考 堀河屋野村 Facebook
*参考 堀河屋野村 Instagram
「堀河屋野村」についても、少し紹介させていただきます。1688年(元禄元年)、和歌山県御坊市にて、紀州徳川家の品物を江戸に運ぶ「廻船問屋*1」として創業。1756年、択捉島への漂流を機に海を渡り、陸のお仕事を始められました。廻船業時代、家内で製造し、江戸のお客様に土産として渡していた醤油や徑山寺(きんざんじ)味噌を、本業として作り始め、現在に至ります。堀河屋野村の蔵は江戸時代当時のもので、国の有形文化財にも指定されています。日本で最も古式な製法とされる「手麹(てこうじ)」にこだわり、醤油、味噌作りに心血を注いでおられます。
*1 江戸時代、荷主と船主の間にあって、積み荷の取り扱いをした業者。
本日は「発酵」というテーマで、非常に興味深いお話が聞けると思います。私も本当に楽しみにしております。
ここからはモデレーターの宮津先生にバトンを渡して、早速セッションを始めてまいりたいと思います。宮津先生、よろしくお願いいたします。
【1】お二方のご紹介
宮津:
皆様、こんばんは。紀南アートウィーク、アーティスティックディレクターの宮津大輔です。本日もよろしくお願いいたします。
今夜のゲストには、藤原先生と野村さんのお二人をお招きしております。よろしくお願いいたします。
藤原:
よろしくお願いいたします。
野村:
よろしくお願いいたします。
藤原先生のご紹介
宮津:
先ほど、森重さんからご紹介がありましたが、改めて、お二人から自己紹介をお願いしたいと思います。
まずは、藤原先生。先生のご著書には『ナチスのキッチン』のように、戦争と食、農業との関係性を考察したものが非常に多くありますよね。歴史学の中でも、先生が特に専門とされているのは農業史です。しかも、20世紀の大事件の1つでもある「ナチス」、一言で言ってしまえば「忌まわしい」ような存在に注目されています。何故、ナチスに焦点を当て、食、農業分野との関係性を研究されているのかを中心に、自己紹介をお願いしてもよろしいでしょうか?
藤原:
私は米農家の長男として生まれましたが、18歳のときに農村を飛び出し、京都に移り住みました。京都大学に進学し、色々な授業を受講しているうちに、歴史に関心を持つようになったんですよ。あるとき、授業でNHKの「映像の世紀」という番組を視聴しました。アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)の演説や、アウシュヴィッツ強制収容所における殺戮を、映像を通して知り、何故このようなことが起こったのか?と、強く興味を持ちました。
その後、ナチスに関する講義などを受講しているうちに、ナチスはどうやら農業を大事にしていたということを知りました。「農民無くしてこの国家は成り立たない。ナチスは農民国家で無ければ滅びる」といったことを、ヒトラーが演説で述べていたのです。更に、ナチス・ドイツは食料の自給自足を目指しており、今の日本からすれば羨ましいほどの農業政策を実施していたということで、非常に驚きました。一方では「忌まわしい存在」とされるナチスと、他方では農業を大事にするナチスがどのように結びつくのだろうか?という疑問から、私の歴史研究は始まりました。
野村さんのご紹介
宮津:
今度は、野村さんにお話を伺います。先ほど、森重さんからのご紹介の中で、商社で大豆関連の輸入業務に従事されていたというお話がありました。何故、大学を卒業して商社を目指すことにしたのか?というところを、まずはお聞きしたいです。そして、商社を辞め、家業の18代目を継がれた理由も含めて、お話を伺いたいと思います。
野村:
ご紹介いただいた通り、堀河屋では江戸時代からずっと、職住一体の小さな蔵を繋いでまいりました。現在は、10人で蔵を守り続けています。私は3人兄弟の長男として生まれたため、必然的に跡取りと見られることが多かったんですよ。しかし、私の両親は「人生は一度きりのアドベンチャーだ」と考える人でしたので、私は昔から「自由に生きて、やりたいことを突き詰めろ」というような教育を受けて育ちました。
若かりし頃から東京への憧れがあり「東京で何かにチャレンジしたい!」と、ずっと思っていました。そのような思いもあって東京の大学に進学したところ、大学の中で出会った先輩方が、魅力的な商社マンばかりだったんです。先輩方の影響を受け、私は家業のことを全く意識せずに商社に就職しました。
商社に入社すると配属面談があり、なんとなく「食品部署」を希望しました。結果的に配属されたのが「飼料部」でした。ここは、鶏、豚、牛のような「産業動物(経済動物)」を養殖するための餌、飼料の原料を扱う部署です。餌と聞くと動物園の餌のイメージしかありませんでしたが、実は、大豆が使われているということを知りました。産業動物の養殖には、たんぱく源の補正として、大豆の搾りかすをとうもろこしなどに混ぜ、それを動物が食べて育つというプロセスがあります。その話を聞いた私は「神様は本当にいるんだ!」と驚きました。飼料部には8年間在籍し、大豆の搾りかすをインド、南米、中国、アメリカから輸入して、日本国内やベトナムに輸出する仕事を中心にしていました。
飼料部で勤務していた頃、ある疑問が思い浮かびました。海外における大豆は「精油」というカテゴリーに属しており、直接食べるものではありません。しかし、日本における大豆は、豆腐、味噌、納豆、醤油のように、直接口にするものなんです。もしかすると、日本人はこのことを知らないのではないか?と、考えるようになりました。米に関しては、農業政策を積極的に取り入れて自国生産を守ろうとする一方で、「大豆は輸入すればいい」と考える人が多いです。私としては、それでは大豆を守ることはできないと考えています。
商社マンとして働くことも楽しかったのですが、自分が作ったものを「美味しい」と言ってもらえる仕事に従事できることが、豊かだと思うようになりました。そして「大豆」と「ものづくり」というキーワードを掛け合わせてみると、自分の実家がまさにそれを具現しているのではないかと気づいたんです。商社を退職し、30歳のときに家業を継ぎたいと両親に伝えたところ、2人とも非常に驚いていましたね。
宮津:
もし、野村さんが違う部署の配属希望を書いていたら、家業を継いでいない、あるいは、継ぐのがもっと後になっていたかもしれませんね。
野村:
恐らく、継いでいないと思います(笑)
宮津:
お話を伺っていると、商社の仕事もすごく面白そうだと思いました。飼料部で大豆と巡り合ったということもあり、そのような意味では、まさに運命的ですね。18代目を継ぐべくして継がれたという感じがします。
野村:
古式の製法でものづくりをするには、やはり、誰よりも醤油や味噌が好きでないといけません。これを「苦労」だと思っているようでは続けられないと、私は初めから分かっていました。両親の掌の上で転がされていたような気もしますが(笑)、やはり、何をするにも「強い意志を持つこと」が一番大切だと思います。
お二方の出会い
宮津:
実は、藤原先生と野村さんは、このケミストリー・セッションで初めて顔を合わせたわけではなく、元々お知り合いだと伺っております。そもそも、お二人がどのようにして出会ったのか、詳しくお聞かせいただいてもよろしいでしょうか?
藤原:
以前、京都で「発酵」をテーマとしたシンポジウムを開催しました。そのときの登壇者が、私、野村さん、元京大総長の山極壽一(やまぎわじゅいち)さん*、そして、自家製酵母パンとクラフトビールを製造販売する「タルマーリー*」の経営者・渡邉格(わたなべいたる)さんです。その場で初めて、野村さんと運命的な出会いを果たしました。一目見て「なんてかっこいい人なんだろう!」と惚れ惚れしましたね。醤油や味噌を作っておられる職人さんが、言葉を選んで自分を表現していることに刺激を受けたんです。
後日、今度は京都にある「総合地球環境学研究所*」にて、私と野村さん、そして、富士酢醸造元である「株式会社飯尾醸造*」の飯尾さんの3人で「発酵」に関するセッションを行いました。野村さんの商社時代のご経験など、素敵なお話をたくさんお聞きして、非常に盛り上がったイベントとなりました。
*参考 山極壽一総長 略歴(京都大学)
*参考 タルマーリー
*参考 総合地球環境学研究所
*参考 株式会社飯尾醸造
【2】食料安全保障と健康
宮津:
ここから、少しずつ深い話に入っていきたいと思います。
まずは、藤原先生にお伺いします。先日、岸田内閣が発足し「食料安全保障*」や「食料自給率*」という言葉が、よりクローズアップされるようになりました。先ほど、先生が「ナチスは農業を大事にしていた」と仰っていたように、ナチスにとっても、食や農業は非常に重要な要素だったのではないかと思います。当時、ナチスが食料安全保障についてどのような考えを持っていたのか、ぜひお聞かせください。
*参考 食料安全保障とは(農林水産省)
*参考 食料自給率とは(農林水産省)
また、アメリカでは農業の工業化*が進み、ITを活用した農業など、大規模なものがあります。一方で、野村さんのように「一つ一つ丁寧に手作りするスタイル」といった、真逆のものもあります。その辺りについても、藤原先生のお考えをお話しいただいてもよろしいでしょうか?
ナチスと食料
藤原:
宮津さんが仰ったように、ナチスは「食料」を安全保障の重要な課題として捉えていました。ヒトラーが首相に任命され、ナチスが政権を取ったのは、1933年1月30日です。第一次世界大戦が1918年に終結しましたから、その地位を築くのに15年もの時間がかかっています。
第一次世界大戦でドイツは敗北しており、実は、敗因には食料の問題があったとされているんです。当時、ドイツはアメリカに次いで、第2位の経済大国でした。大砲も火薬も大量に備えていて、技術的には、イギリスよりもかなり優位的な立場にいたそうです。実際、ドイツには「戦争においては他国よりも有利だ」と思い込んでいる人が多くいました。
ところが、ドイツには、植民地の保有数が少ないという弱点があったんですよ。しかも、植民地のほとんどがアフリカで、食料の2~3割を海外からの輸入に頼っているという状況でした。現在、日本の食料自給率が37%程度ですので*、大層羨ましい数字ですが。さらに、当時、中立国だったアメリカから小麦を輸入し、アルゼンチンなどから家畜の餌を輸入して牛乳の生産に宛てていたこともあり、ドイツはかなり他国依存の農業構造をしていたそうです。
*参考 令和2年度食料自給率・食料自給力指標について(農林水産省)
そのような状況のまま戦争が始まり、輸入相手国であったロシアとフランスを敵に回してしまったため、ドイツには食料が輸入されなくなりました。しかも、アメリカとアルゼンチンとの関係性にイギリスが目を付け、食料を積んだ船を拿捕(だほ)して経済封鎖をしたんですよ。これらの不幸が重なり、ドイツ国民は飢えに飢えてしまいました。当時、ドイツでは76万人の餓死者を生み出し、そのうち半分は子供だったそうです。
さらに、第一次世界大戦の最終年には「スペインインフルエンザ(スペインかぜ)*」と呼ばれるパンデミックが流行し、子供も含めた多くの人々が亡くなりました。このショックを教訓にして、ナチスは「二度と飢えさせない国家を作る」と意気込み、食料自給率の向上を目指したそうです。
大戦が終結し、ナチスは農民からの票を得るために、農民へのプロパガンダ(宣伝)を実践しました。当時、国民啓蒙・宣伝大臣だったヨーゼフ・ゲッベルス(Joseph Goebbels)*が策略を巡らせて票を増やし、結果的に、ヒトラーの首相任命に繋がっています。
*参考 スペインインフルエンザ(国立感染症研究所 感染症情報センター)
*参考 ヨーゼフ・ゲッベルスとは(コトバンク)
さらに、当時、アメリカは既に「農業技術大国」でした。化学肥料はもちろんありましたし、1892年には世界で初めてトラクターを製造したほど、本当に素晴らしい技術が揃っていました。そのような意味でも、ドイツはアメリカに全く歯が立たなかったのでしょう。その後、日本とイタリアと手を組み、アメリカに挑戦した第二次世界大戦でも、やはり、食料生産力では全く敵いませんでした。以上のように、食料から20世紀の歴史を考察することは、非常に重要なことなのではないかと思います。
食との向き合い方
宮津:
野村さんは現在、全て自らの目が届く範囲で、一から醤油や味噌を手作りされていますよね。今の世の中としては「効率性や生産性を重視し、大量生産をして大きく儲けること」に傾倒しすぎているような気がします。そういうものに対して、野村さんがどのような思いで醤油や味噌を作っているのか、根幹にある考え方をお話しいただいてもよろしいでしょうか?
野村:
根幹にあるのは「食べ物は体を作るものである」という考え方です。よく言われる話でいえば「安心安全なもの」あるいは「家族に食べさせても大丈夫だと思えるもの」を作りたいと、常に思っていますね。我々は原料を加工して製品を生み出しており、加工の過程に関しては、私が目を凝らして全て確認することができます。しかし、大豆や小麦といった原料に関しては、生育状況を詳しく知っているわけではありません。だからこそ、生産者の方と積極的にコミュニケーションを図ることが重要なんです。
私は北海道の大豆、小麦を使っているのですが、以前、農家の方から勉強になる話を伺いました。彼らは毎年、大豆だけを育てずに小豆や馬鈴薯(ばれいしょ)も育てているそうです。たとえ収入の少ない作物であっても、継続して生育することで土壌が肥沃になるのだと、農家の方が話してくれました。つまり、単純に大豆だけを作っているというよりは「土を育てている」という感覚だと思います。先ほどの藤原先生のお話にも近いかもしれませんが、恐らく、ナチスが国土を強化するための取り組みと似ているのではないでしょうか。いきなり食べ物を畑で作ろうとしても、なかなか上手くいきません。農家の方が土を育てること、あるいは、国家が地力をつけることは、非常に重要なことなのではないかと思います。
ナチスの「健康主義」
宮津:
今の野村さんのお話の中に「土を強くする」という言葉がありました。確か、藤原先生のご著書の中で、ロボットの生みの親であるカレル・チャペック(Karel Čapek)*が、庭仕事で土と戯れる喜びを語っていた、という話があったと思います。
また、ナチスは強権的に政権を奪取したわけではなく、民主的に選ばれて生み出された政権ですよね。労働や農業を重視しており、一見すると非常に素晴らしい印象を受けるのですが、何故、独裁国家として振る舞ってしまったのか、不思議でなりません。ナチスの情勢と、食料の問題や民主主義との関連性について、藤原先生のお考えをお伺いできればと思います。
藤原:
そのときにキーワードとなるのは「誰にとっての健康か、幸せか」という言葉です。ナチスは「誰も飢えさせない」というスローガンを掲げ、政権を取ることになります。実際、第二次世界大戦の最終局面までは国民を飢えさせなかったため、有言実行だと言われがちなのですが、これにはトリックがありました。
ナチスは人種主義者であり「アーリア人*」という言葉を用いて、ある血筋を持っている人種だけが世界に君臨できるという考えを持っていたんです。彼らの考える「純粋なドイツ人」のみを飢えさせないようにして、占領した地域のポーランド人、ロシア人、あるいは、ユダヤ人は生きていても仕方がないと、ランク付けをしていました。つまり、他の民族の不健康あるいは死と引き換えに、自国民の健康を確保しようとしたんですよ。
*参考 アーリア人とは(コトバンク)
現に『健康帝国ナチス』という本が出版されているように、ナチスは健康主義的要素が強かった。壮健な兵士、壮健な母親をモデルとしました。例えば、アフリカからバナナを買わずにドイツのりんごを食べる、胃癌にならないように野菜を食べる、紅茶ではなくハーブティーを飲む、といったことを意識していたそうです。恐らく、食料自給も目的だったとは思いますが、ナチスはある意味「健康主義」にとりつかれた運動体だったといえます。しかしながら、自国民だけの健康を目指しており、「健康」という言葉の適用範囲が限定されているわけです。この部分に、すごく大きな問題があったのではないかと思います。
人間と農業との関係性
宮津:
今のお話も興味深いのですが、もう1点、ナチスに迫害されていた民族にも目を向けたいと思います。例えば、先ほど少しお話しした、チェコのチャペックがそうです。彼は、人間の奴隷だった山椒魚が知能を持ち、人間を追い詰めていく『山椒魚戦争』という小説を書いています。また、チャペックは庭や土に対する愛着が大きかったそうです。彼のように、ヨーロッパにおいて、人々の生活と農業、あるいは食、土といったものは、密接に関係しているのでしょうか?
藤原:
チャペックはすごく特異な存在だと思います。彼は、ロボットという言葉を編み出したSF作家でありながら、園芸家でもありました。自分の庭が気になって旅行にも行けないというタイプの人間だったそうです。当時のヨーロッパには、チャペックのように、ガーデニングや土いじりを楽しむ知識人がたくさんいました。しかしながら、ヨーロッパは世界に先駆けて化学肥料を投じるような地域でしたから、土壌流出の問題が発生していたそうです。ドイツは化学立国であり、とにかく化学肥料を使うことが多かったことから、特にドイツではこの問題が話題となっていました。
ちょうどその頃、アメリカでは近代化が進みすぎたために、土壌流出が始まり「ダストボウル*」という砂嵐が発生しました。シカゴでは、昼間なのに真っ暗になってしまったそうです。このような問題が発生したこともあり、この時代の土壌学者たちは、土壌汚染の恐ろしさと向き合わざるを得なかったと思われます。
*参考 アメリカ中西部を襲う干ばつと大豆生産:1. アメリカの農業は自然との闘い(日本植物油協会)
土壌流出の問題があったものの、実はこのような美談が広まっています。「昔のヨーロッパの人々は、土壌作りを一生懸命やっていた」とか「堆肥を集めて土壌の回復を待っていた」という話ですね。まさしく、ヨーロッパの人々にとっての「理想郷」として語り継がれているのでしょう。
【3】「美味しさ」の追求
宮津:
今度は「美味しさ」について伺いたいと思います。先ほど、野村さんは「食べ物は体の中に入れるものだから、安心安全なものを作る」ということが重要だと話されていました。実は、私自身、食べ物の「品質」と「美味しさ」との関係性に興味があるんですよ。今の時代は、ミシュランのように飲食店に星を付けて評価するなど、グルメブームが広まっており、やや飽食気味だと思います。このような点も踏まえて「美味しさ」とは何か、あるいは、何を基準に「美味しい」と捉えるのか、野村さんのお考えをお聞かせください。
「美味しさ」の捉え方
野村:
私はいつも「自分がどう思うか?」ということを意識しています。他の人が嫌いな味だと思っていても、自分が美味しいと思えばいいですし、そう考えることが豊かな人生に繋がるような気がしているんです。この考えは、今回のトークセッションのテーマにもなっている「食から考える美」に近いかもしれませんね。美的感覚は人それぞれ違いますから、味覚も当然違います。味覚は先天的に与えられたものと、後天的に何を食べてきたのかというものの融合です。だからこそ、人それぞれ「美味しい」という感覚が違うのは当たり前のことだと思います。
しかしながら、効率化していく世の中で「いつ食べても、どこで食べても同じ味がするもの」が、何故か求められてしまっているんです。例えば、コンビニエンスストアのおでんは、札幌で食べても福岡で食べても同じ味がしますよね。そういった「同質のもの」を求めてしまう日本人が増えているという状況を見ると、本当にもったいないと思います。四季があって島国で、国際的に見ても特色のある食文化を育んできた国なのだから、こういった利点を活かすべきです。「日本にはこんなに豊かなところがある」とか「不便があるから便利がある」と思えるようになれば、今の状況も変わるかもしれません。私たちのものづくりがそのきっかけになればと思い、粛々と醤油作り、味噌作りに励んでいます。
伝統と革新
宮津:
堀河屋野村では創業時のままの設備を用いており、現在は10人で醤油、味噌を製造されています。この部分に、創業時から代々受け継いできた「伝統」が色濃く出ているように思います。また、VR技術を活用して蔵の中を見せる「蔵人船(cloud-ship)」というシステムも提供されていますよね。実際の製法は非常に古式ゆかしい形ですが、このシステムには、非常に先端的なテクノロジーが駆使されているといっても過言ではありません。このような「伝統と革新」という部分について、野村さんのお考えをお話しいただいてもよろしいでしょうか?
野村:
今回、紀南アートウィークのテーマが「籠もる」と「ひらく」だと知ったとき、まさにこれが私が人生で体現したいことだと感動しました。私がモットーとしているのは「作りながら伝える」ということです。偶然にも、醤油や味噌に使う麹は、麹室(こうじむろ)*の中で育てており、まさに、醤油や味噌作りは「籠もる」ことなのではないかと考えています。そして、醸造して製品になったものをお客様にお届けするのは「ひらく」ことだと思います。つまり、伝統は「籠もる」こと、革新は「ひらく」ことを意味しているのではないでしょうか。まさに、堀河屋野村では、古式ゆかしいアナログな要素と、先端的なテクノロジーを駆使したデジタルな要素を両立させています。
*参考 【三ツ星醤油の製造工程④】麹室での手入れ-1(堀河屋野村 YouTube)
宮津:
ありがとうございます。紀南アートウィーク実行委員長の藪本も、今の野村さんのお話を聞いて、きっと喜んでいることでしょう。「籠もる」と「ひらく」は紀南アートウィークのテーマですが、この部分についてはトークセッションの最後に改めて、藤原先生と野村さんにお話を伺いたいと思います。