みかんコレクティヴ
みかん神話 -紀伊半島と橘の関係を思考する-
2022年5月8日
紀南アートウィーク 藪本 雄登
1 はじめに -明るい闇の国・紀伊半島-
―いまも私には、この紀伊半島そのものが “輝くほど明るい闇にある” という認識がある。
ここは闇の国家である。日本国の裏に、名づけられていない闇の国として紀伊半島がある[1]―
――中上健次『紀州 木の国・根の国物語』
「紀州 木の国・根の国物語」は、紀南/熊野が生んだ偉大なるアーティスト・中上健次(1964-1992)が残した唯一の探訪記である。「根の国」である紀南や熊野地域は、スサノヲが統治する「木」と「根」によって混沌とした異界ともいわれ、差別・追放された敗者達を受け入れ続けた場所[2]である。
そのような異郷の地にも関わらず、中上健次はなぜ「輝くほど明るい」という言葉を使ったのだろうか。これを考える上で、みかんや橘といった柑橘が一つのヒントを与えてくれるのではないだろうか。
2 植物と神話 -柑橘と太陽-
神話とは何だろうか。ルーマニアの宗教学者ミルチャ・エリアーデ(Mircea Eliade,1907-1986)は『神話と現実』において、「神話とは神聖な歴史を物語る」ものであり、「常に『創造』の説明であって、あるものがいかに作られたか、存在し始めたかを語る[3]」ものであると述べている。
その神話の中でも、植物や柑橘に関係する神話は世界に数多く存在している。杉、欅、リンゴ、桜、桃、蓮、バナナ等、その種類は非常に多い。それは、人も自然も、同様に、それぞれの種を残し、殖やしたいという願望を持っているからではないだろうか[4]。そして、各地域の風土に合った植物が、人々の理解を促進するための象徴やメディアとして、神話の中で活用されている。例えば、インドネシアやニューギニア等の南洋における「バナナ神話」や、日向神話におけるニニギとコノハナサクヤヒメの「木の花神話」が挙げられる。これらにおいては、風土の差異に基づいて、「バナナ」と「美しい花」といった異なった植物が題材とされているが、ともに、人間の死の起源について説明がなされている点[5]は同様である[6]。
また、柑橘類でいえば、オレンジの木は、枝に白い花々を咲かせ、同時に、黄金色の果実を生み出す独自の特徴を持っている。この特徴は、キリスト教的神話の象徴として活用されてきた。つまり、白い花は「純潔」、黄金色の果実は「多産」の意味を与え、また、西洋の宮廷絵画において、チーマ・ダ・コネリアーノ「オレンジの聖母(1495年頃)」やガウデンティオ・フェッラーリ「オレンジの聖母(1529年頃)」が示している通り[7]、処女でありながら母でもある聖母マリアの象徴として描かれてきたのだ[8]。さらに、ギリシャ神話におけるアテランテの愛の神話[9]、ボッティチェリの「春(1478年頃)」や「ヴィーナスの誕生(1485年頃)」[10]、セザンヌの「林檎とオレンジの静物(1899年頃)」等の偉大な西洋画家達の絵画表現において、柑橘類は、自然と豊穣の象徴として表現されてきた。そして、何より柑橘類は、その丸い形とその色から、太陽のシンボルとされてきた[11]。
では、柑橘類は、日本においても同様に、豊穣や太陽の象徴として捉えられてきたのだろうか。日本神話における太陽と橘の関係について、思索を試みたいと思う[12]。
3 日本神話と橘
(1)記紀神話 -南方系の植物神・スサノヲと北方系の太陽神・アマテラス-
古事記と日本書紀(以下、「記紀神話」)は、①中国南部から東南アジア(南方系)、②朝鮮半島と内陸アジア(北方系)等といった様々な系統の神話が多層的かつ多元的に集まって構成[13]されているといわれ[14]、記紀神話の天岩戸神話では、アマテラス(生、秩序、太陽の神)とスサノヲ(死、破壊、海原、根の神)の対立構造が描かれている。
この内、スサノヲは、東南アジアの日食月食起源神話における乱暴な末弟「ラーフ」と特徴が類似している[15]。また、東南アジアでは、神や精霊が樹木に宿るという信仰が多く存在しているが[16]、紀南/熊野の土着神であるスサノヲも南方的な植物神[17]である。さらに、スサノヲが高天原で乱暴狼藉を働き、アマテラスの畑の畦を壊したり、糞を撒き散らしたりしたのは、スサノヲなりの農業(焼畑)だったのではないかともいわれ[18]、スサノヲに斬り殺されてしまったオオゲツヒメの死体からは、ヒエ、アワ、大豆等の雑穀栽培型の焼畑作物が多く生まれている。このように、スサノヲには南方系及び縄文的農耕の性格が色濃く反映されている[19]。
他方、アマテラスは、世界に秩序と光をもたらす太陽神である[20]。アマテラス系の天孫降臨神話(天皇系の先祖が高天原から降りてくる物語)は、古墳時代に、華北からユーラシア大陸における大動乱の影響を受けて[21]、朝鮮半島から、支配者文化の一環として入ってきたものだといわれており[22]、その動乱の最中、日本の「体制変革」において、新しい思想を導入するための建国神話として政治的に活用されてきた[23]。その意味で、太陽は、外部からの支配者が王権を樹立する際に、特定の土地や家系に縛られずに、統一的なイデオロギーを構築するのに強力なツール[24]だったといえる。上記ミルチャ・エリアーデの神話の定義に照らせば、天孫降臨神話とそれに連なる神武東征神話は、中央の支配者集団の中で伝承される“神聖な”国家の物語なのである。
(2)田道間守、弟橘比売命、イザナミの祓詞 -橘を巡る神話-
そのような文脈において、日本における原初の柑橘類である「橘」は、どのように機能するのだろうか。記紀神話には「橘」という言葉が多く登場するが、これは太陽や秩序の象徴としての柑橘と何らかの関連があるのだろうか。
まず、橘に関連するものとして、病床に伏せる垂仁天皇のために、常世の国から橘を持ち帰ったという田道間守[25]神話[26]が有名である。田道間守は、和歌山県海南にある橘本神社において主祭神として祀られている[27]。橘は、ここでは「非時香果」と呼ばれ、その黄金色に輝く丸い実は、不老不死の力を持っているといわれていた。ここにおける「ときじく(非時)」とは、時間に左右されないことであり、「かく(香)」は、「香りのよい」「輝く」という意味で使われている[28]。光輝く橘は、常世から現れ、永遠に周期運行する太陽のような長寿と幸運をもたらす[29]と思われていた。現代でいえば、橘は、光り輝く金や貨幣のように人々を魅了するものであったのではないだろうか。
また、記紀神話の中盤で大活躍するヤマトタケルの妻である弟“橘”比売命の名前に「橘」が登場している。弟橘比売命は、走水の海(浦賀)でヤマトタケルの身代わりとして犠牲となるが、その結果、暴風雨を鎮め、ヤマトタケルの東征を前進させる役割を担っている[30]。ヤマトタケルは、玉浦(現在の九十九里浜)で、名に因んで橘の木を妻の墓標とする[31]。これは、巫女が荒ぶる海原を制御する人身御供の信仰を活用し、橘を表象する巫女が、アマテラス的な女神信仰と再生力を象徴する機能を担いながら、スサノヲ的な荒ぶる力を相対的に制御し、低下させる効果を生じさせているように思える。
最後に、イザナミから追われ、黄泉の国と海原の境界[32]に戻ったイザナギが禊(穢れを取り除くための水浴行為)を行う場面に戻る。イザナギが、その左目からアマテラスを生み出す場所は、「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」と言われているが、この祓詞の中にも「橘」という言葉が登場する。
まず、ここにおける「日向」は現在の宮崎県という特定の場所を示すともいわれているが、「朝日直射す国」、つまり「日光があたる場所」の総称ではないだろうか[33]。「日向」とは、まさにアマテラスが象徴する太陽の在り処であり、そこに太陽の象徴と思わしき「橘の木」があったとしても違和感はないだろう。
また、「橘」の「たつ」には、「真っ直ぐ直立している」、「自然界の作用が目立って現れる」という「立つ」という意味に加えて、「繋がっているものを切り離す」という「断つ」の二重の意味が含まれているのではないかと考える。「橘」は、天高原と黄泉国のあいだに存在する地上に、毅然と直立する神聖な樹木として存在していたのではないか。筆者は、三貴神の登場シーンにおいて、アマテラスの存在感が、橘の存在も相まって、極めて強調されるイメージを持ち続けている。
ちなみに、現代においても、その柑橘類の果実は、正月の鏡餅の上に飾られたり、玄関に設置されたりといった一種の魔除け(破壊や不幸を切り離す)の機能を果たしている。すなわち、柑橘は、「秩序-正」を維持し、「混沌-負」を切り離そうとするアマテラス的な思想性をもった象徴的な植物なのではないだろうか。
4 最後に -闇の国家の視座から-
さて、最初の問いに戻ろう。中上健次は、なぜ紀伊半島を「輝くほど明るい闇の国家」と表現したのだろうか。筆者は、中上健次のこの言葉に一種の皮肉と紀伊半島への誇りを感じられずにはいられない。
上述のとおり、みかんの神話を紐解いていくと、その裏側には、アマテラスとその子孫である天皇家の支配論理が浮かび上がってくる。すなわち、絶対的な光と秩序の正の原理が、闇と混沌の負の原理を打ち倒す・支配するという構図だ[34]。そして、その構図を象徴するのが、「橘」である。
紀伊半島は、スサノヲが統治する「根の国」を起源とするにもかかわらず、日本で最も多くの柑橘類が生産地されている[35]。即ち、支配者によって統治された「根の国」において、太陽の化身である柑橘が大量に生産されている姿(特に、中上健次が生きた1960年代〜1970年代終わりにかけて、生産量が急拡大している[36])は、まさに太陽の烙印のようである。中上健次は、そんな状況に皮肉を込めて、「輝くほど明るい闇の国家」という表現を用いたのではないだろうか。
もう一点、中上健次は、「輝き」や「明るさ」に惑わされ続けている人々を皮肉っているのではないか。「Capitalism(資本主義)」の語源は、「Caput」に由来する。「Caput」とは、「先端部分」や「頭」を意味し[37]、植物においては雌しべの先端、つまり「果実」を意味する。果実、ひいては貨幣の増殖ばかりを目指す現代社会に、「闇の国家(木の世界/根の世界)」の重要性を説きたかったのではないか。先端や果実を志向するのではなく、木や根自体を思考することの重要性が増している現代において、中上健次の言葉が刺さる。
最後に、その「(果実型)資本主義」が蔓延する時代において、中上健次は、「正/負」、「アマテラス/スサノヲ」、「果実/根(木)」は、不可分一体の関係にあり、根や闇等といった負の概念が重要であること示したかったのではないか。だからこそ、紀伊半島を「明るい闇の国家」というパラドックス的な表現とした可能性がある。
この点、アメリカの歴史学者ジェームズ・スコット(James C. Scott)は、この正と負の不可分離性を「闇の双生児」という言葉で表現している。つまり、「国家民/非国家民」、「農耕民/狩猟採集民」、「文明人/野蛮人」は、記号としても、実態としても双生児であると主張している。国家や文明人が消滅すれば、非国家や野蛮人が消滅する(その反対もしかりである)、という歴史的事実がある[38]。そして、スコットは、皮肉的な意味合いで「野蛮人」という言葉を使いながら、「国家」や「文明」の世界を生きる私達よりも、「野蛮人」が、世界でもっとも長く、より自由で平等な黄金時代を謳歌してきたのだ[39]、という衝撃の事実を記している。
そう考えると、中上健次の真の意図は、単純に言葉そのままに「闇の国は、誇らしいほど輝いている(国家や行政に飼い慣らされずとも、自由で、平等で生存可能性が高い)」ということを伝えたかったのもしれない。
以 上
[1] 中上健次『紀州 木の国・根の国物語』角川文庫、1980年、288頁
[2] 同書294頁-297
[3] ミルチャ・エリアーデ、中村恭子訳『エリアーデ著作集 第7巻 神話と現実』せりか書房、1995年[4] 近藤米吉『植物と神話』雪華社、1973年、1頁
[5] 吉田敦彦『日本神話の源流』講談社、2007年、44-46頁、「死の起源神話」は、人間の寿命がなぜ短くなったのかということを説明する神話であり、バナナ神話では、「石とバナナ」の選択において、「石」を選び、木の花神話では、「石と花」がそれぞれ醜い姉娘と美しい妹娘に変化し、「美しい妹娘」を選び、神の怒りによって寿命が設定されるというものである。
[6] 大林太良『神話の系譜』講談社、1991年、291頁
[7] クラリッサ・ハイマン、大間知知子訳『オレンジの歴史』原書房、2016年、133頁-138頁
[8] ピエール・ラスロー、寺町朋子訳「柑橘類(シトラス)の文化誌—歴史と人との関わり」一灯舎、2010年、239頁、240頁
[9] ピエール・ラスロー、寺町朋子訳「柑橘類(シトラス)の文化誌—歴史と人との関わり」一灯舎、2010年、237頁
[10] ピエール・ラスロー、寺町朋子訳「柑橘類(シトラス)の文化誌—歴史と人との関わり」一灯舎、2010年、240頁、同書では背景の樹々は、オレンジの樹木だといわれている。
[11] ピエール・ラスロー、寺町朋子訳「柑橘類(シトラス)の文化誌—歴史と人との関わり」一灯舎、2010年、297頁
[12] オレンジとは異なり、橘やみかんは、オレンジのように白い花と実を同時期につけないため、純潔と多産に関する点については、検討しないものとする。
[13] 大林太良、吉田敦彦『世界の神話をどう読むか』青土社、1998年、222頁、223頁
[14] 大林太良、吉田敦彦等『日本神話辞典』、大和書房、1997年、348頁
[15] 大林太良、吉田敦彦『世界の神話をどう読むか』青土社、1998年、192頁、193頁
[16] 大林太良『神話の系譜』講談社、1991年、264頁
[17] 篠田知和基『世界植物神話』、2016年、八坂書房、24頁
[18] 同書25頁
[19] 大林太良、吉田敦彦等『日本神話辞典』、大和書房、1997年、349頁
[20] 池田雅之、三石学等『熊野から読み解く記紀神話-日本書記一三〇〇年記-』扶桑社新書、2020年、24頁
[21] 溝口睦子『アマテラスの誕生――古代王権の源流を探る』、岩波書房、2009年、60頁
[22] 大林太良、吉田敦彦等『日本神話辞典』、大和書房、1997年、349頁
[23] 溝口睦子『アマテラスの誕生――古代王権の源流を探る』、岩波書房、2009年、38頁
[24] 大林太良、吉田敦彦『世界の神話をどう読むか』青土社、1998年、218頁
[25] 大林太良『海の道 海の民』小学館、1996年、263頁
[26] 大林太良、吉田敦彦等『日本神話辞典』、大和書房、1997年、198頁
[27] 橘本神社ホームページ https://wakayama-jinjacho.or.jp/jdb/sys/user/GetWjtTbl.php?JinjyaNo=2021
[28] 大林太良、吉田敦彦等『日本神話辞典』、大和書房、1997年、224頁
[29] 大林太良、吉田敦彦等『日本神話辞典』、大和書房、1997年、225頁
[30] 大林太良、吉田敦彦等『日本神話辞典』、大和書房、1997年、84頁
[31] 菊池利夫『東京湾史』、大日本図書、1974年、40頁
[32] 谷川健一『日本の神々』、岩波書房、1999年、96頁、97頁
[33] 大林太良、吉田敦彦等『日本神話辞典』、大和書房、1997年、357頁
[34] 大林太良、吉田敦彦等『日本神話辞典』、大和書房、1997年、365頁
[35] 農林水産省統計 https://www.maff.go.jp/kinki/toukei/toukeikikaku/yotei/attach/pdf/2021-2.pdf
[36] 辻和良『和歌山県における柑橘産地の展開と課題』、2018年、ウェブサイト(http://www.mikan.gr.jp/report/tenkai.pdf)
[37] 中沢新一『純粋な自然の贈与』、せりか書房、1996年、93頁、94頁
[38] ジェームズ・C・スコット、立木勝訳『反穀物の人類史――国家誕生のディープヒストリー』、みすず書房、2019年、225頁-228頁
[39] ジェームズ・C・スコット、立木勝訳『反穀物の人類史――国家誕生のディープヒストリー』、みすず書房、2019年、229頁